今回は、徳川四天王・十六神将筆頭の酒井忠次(ただつぐ)です。NHKの大河ドラマ「どうする家康」では、大森南朋さんが演じています。酒井家のルーツは松平家と同一とされており、忠次は、徳川家康の義理の叔父に当たり、とても家康に近しい人物でした。

家康より15歳年長の忠次は、関ヶ原の戦い前に亡くなりますが、その跡を継いだ彼の長子、家次(いえつぐ)は、家康が豊臣秀吉によって関八州に移封された際、かつて家康の生命を狙った謀臣・本多正信(まさのぶ)と同様、小さな領地しか与えられていませんでした。

忠次も、家康にはなくてはならない重臣でしたが、彼にも暗い過去があったのです。忠次はどのような人物だったのでしょうか。加来耕三氏が、家康との間にあった出来事をつなぎながら、詳しく解説してくれます。

 酒井忠次は、徳川家康に仕えて大きな功績を上げた古参家臣です。ですが、彼は家康の嫡子・信康(のぶやす)を切腹に追い込んだとされる、暗い影がつきまとった人物でもありました。

 忠次は大永7(1527)年の生まれで、天文11(1542)年生まれの家康より15歳の年長でした。元服後、家康の父・松平広忠(ひろただ)に仕えています。家康が今川義元(よしもと)のもとに人質となると、23歳になった忠次は家康の養育係兼守り役として、駿河国駿府(するがのくに・すんぷ)へ随行していきます。

 弘治2(1556)年、前年に元服したばかりの家康(15歳)が、今川側として織田軍と戦った際には、忠次は三河国(みかわのくに)岡崎城に攻めてきた敵将・柴田勝家(かついえ)に対して、先陣として城外に出て戦いを挑み、勝家を負傷させ、敗走させる活躍を見せます。これ以降、家康は戦(いくさ)の際には忠次を先陣にすることを常としました。

「酒井忠次は、家康が今川義元の人質となると駿府へ随行しています。戦の際には先陣を任されるなど、若いときからずっと家康をサポートしていました」(筆者の加来耕三氏)
「酒井忠次は、家康が今川義元の人質となると駿府へ随行しています。戦の際には先陣を任されるなど、若いときからずっと家康をサポートしていました」(筆者の加来耕三氏)

 さて、天正7(1579)年に起きた信康切腹事件ですが、これは信康が織田信長に謀叛(むほん)を疑われ、信長の命で家康がやむなく信康に切腹を命じたというのが通説です。しかし、今ではいろいろな解釈があります。最近では、家康と信康の父子間の対立が原因で、家康本人の意志で切腹を命じた、という説を採る人もいます。

 通説は事の発端が信康の嫁姑(よめしゅうとめ)問題であり、夫婦げんかだったというものです。信康の生母である築山殿(つきやまどの)は、家康が16歳のときに駿府でめとった正室で、今川義元(よしもと)の姪(めい)といわれています。

 一方、信康が結婚した徳姫(とくひめ)は信長の娘でした。信長と家康との間で、同盟が成立したとされる永禄5(1562)年の翌年、2人は婚約しています(永禄10年5月に結婚)。

築山殿から日々嫌みを言われた徳姫

 徳姫は18歳で長女、19歳で次女を産みますが、男児には恵まれませんでした。そのため姑の築山殿から日々嫌みを言われ、さらに築山殿は元武田家の家臣の娘などを信康の側室として迎え入れます。

 このようなことから徳姫と築山殿の間は険悪になり、さらに徳姫がそのことを夫の信康に訴えても、彼は取り合わず、ついに夫婦げんかになったというわけです。

 不満がたまりにたまった徳姫は、父・信長に築山殿と信康が武田勝頼(かつより)に内通しているなどの罪状を訴える十二カ条の訴状を、書き送ったのです。この訴状は、徳姫が感情のおもむくままに、あることないことを誇張も交えて書き連ねたものでした。

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