あまたいる戦国武将の中で、多くのビジネスパーソンに人気なのが、意外や石田三成です。特に経営者層に人気が高い。「こういう部下が欲しい」「参謀、ナンバー2に欲しい」というわけです。

 石田三成は豊臣政権を盤石にするために、次々と手を打ち、策を講じ、それを問題なく着々と実行していきました。太閤検地など、おそらく三成がいなければ、あのようにどこからも不平不満を出さずに、実施することはできなかったでしょう。

 九州平定の時も小田原征伐の時も、10万を超える軍勢の兵站(へいたん)をすべて滞りなく手配したのは三成です。朝鮮出兵では兵站だけではなく、撤収の際の業務もすべて三成が博多から指示を出し、つつがなく帰国させました。

先が読め、感情抜きに正論を語る石田三成(画:中村麻美)
先が読め、感情抜きに正論を語る石田三成(画:中村麻美)

理工系出身の研究・開発職に多いタイプ

 石田三成は、私利私欲は一切持ちませんでした。常に秀吉に対する、豊臣家に対する、忠誠心だけで行動しています。三成は誰も反論できない正論を吐く人間でした。今の企業で言うと理工系出身の研究職、開発職に多いタイプです。営業部隊とは違うところに結構、出てくるタイプです。

 三成は先が読めていました。読めていましたが、周りの人間が見えていなかった。周りの空気が読めず、悲しいかな人の心がつかめなかった。そういう人間です。人の心が分かっていないから、どうしても上から目線でものを言うように思われてしまいます。

「何でお前たちは、これが分からないのだ」と、つい言ってしまうのです。

 三成を理解するためには、豊臣政権を理解しなければなりません。豊臣政権は簡単に言うと、武断派と文治派の連合政権でした。

 秀吉がまだ木下藤吉郎だった時代から、羽柴秀吉と名を変えた長浜時代にかけ、秀吉の従兄弟(いとこ)である福島正則や又従兄弟の加藤清正などに、台所飯を食わせて育て、合戦で次々と手柄を立てさせました。

 武断派からなる尾張閥は、秀吉を出世させるために体を張って頑張った人たちです。彼らを束ねたのがのちの北政所=おねです。おねが飯を食わせてやり、着物を作ってやり、養育したのです。

 これに対して、秀吉が長浜城の城主となって、信長の各方面軍の司令になったところから仕えたのが、三成などの文治派です。そろばんが弾け、頭の切れる近江商人の血が入っているような人間が集まってきました。

 武断派とは全く毛色が違います。のちに彼らの精神的支えとなったのが近江出身の淀殿でした。

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