当連載「温故知新 いま読み直したいあの日経ビジネス」では、日経ビジネスの莫大な過去記事から一編をピックアップして紹介している。今回は2002年の宮崎駿氏の記事を取り上げる。

STUDIO GHIBLI Inc. 
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 伝説的なアニメーション作家であり、アニメーション映画の監督といえば、いの一番に宮崎駿の名前が挙がるだろう。TVアニメーションの監督を経て、1979年公開の「ルパン三世カリオストロの城」で映画監督デビューを果たし、数々の劇場向けオリジナルアニメーションを手掛けてきた。「千と千尋の神隠し」は、2003年に米アカデミー賞の長編アニメ賞を受賞。ジャパニメーションとして世界で高い評価を得ただけでなく、アニメ映画「鬼滅の刃」の劇場版が記録を塗り替えるまで歴代興行収入のトップに君臨し続けた。このほか「風の谷のナウシカ」「崖の上のポニョ」「ハウルの動く城」などファンタジー世界をテーマとした作品の数々も高い評価を受けている。

 13年の「風立ちぬ」を最後に宮崎は長編映画監督からの引退を表明。14年にはスタジオジブリの制作部門の解体が発表された。一部メンバーはスタジオジブリでプロデューサーを経験した西村義明率いるスタジオポノックに引き継がれた。

 宮崎駿は実は何度か引退発言をしている。13年の引退宣言では、今度こそほんとうに引退すると思われた。だが、17年には吉野源三郎著の「君たちはどう生きるか」を基にした長編アニメーションを制作していることが明らかになり、スタッフを募集し制作を進めている。22年1月に81歳となった宮崎駿の新たな作品の公開が期待されている。

 そんな彼を取り上げた日経ビジネスの20年前の記事がある。当時、宮崎は日本のアニメ界は「危機的状況」にあるとしていた。そこで挙げられた人材の枯渇や日本アニメの二極化などの状況は、20年を経た今も大きくは変わっていないようにみえる。アニメをコンテンツ輸出の切り札にし続けたいとの考え方は今も根強いが、この課題を解決しない限り、輸出拡大どころか産業として衰退する恐れさえある。世界を市場として、動画配信のサブスクリプションサービスが全盛になり、コンテンツの奪い合いが起きている今だからこそ、この問題にもう一度立ち返ってみる必要があるのではないだろうか。

 ちなみに、初期のスタジオジブリは他のアニメーションスタジオと同じくハードな仕事現場だったされているが、次第にその状況は改善。新人アニメーターでも、普通に生活ができるレベルの月給が支払われるようになっていった。制作中の新作においても、深夜残業禁止など労働環境の改善が進んでいるという(一般的なアニメスタジオは、個人事業主の集合体であることも多く、休日なしで月収10万円という厳しい環境も存在する)。こうした労働環境の改善が進むことを期待したいところだ。

 そんな宮崎駿について映画ライターの外山まさゆき氏が執筆した「アニメ界最後の夢先案内人」を掲載する。

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以下の記事は日経ビジネス2002年4月1日号の記事『ひと列伝 アニメ界最後の夢先案内人』を再掲載したものです。登場する人物の肩書、企業・組織名、資本・提携関係、表現などは原則として掲載時のものです

アニメ界最後の夢先案内人

宮崎 駿(みやざき・はやお)氏
1941年1月5日、東京・文京区生まれ。61歳。63年学習院大学を卒業、東映動画入社。71年同社を退社後、複数のアニメーション制作会社で経験を積み、74年制作のTVシリーズ「アルプスの少女ハイジ」で名を馳せる。84年に映画「風の谷のナウシカ」を監督。85年スタジオジブリ発足。現在スタジオジブリの所長、役員とジブリ美術館の館主を兼任する。

 高校生の頃は漫画家志望だった。時は1960年安保に差しかかり、学生運動の兆しが見え始めていた。漫画(劇画)の潮流は、政治不信の世を反映して退廃的なムードに満ちていた。ご多分にもれず宮崎もその影響を受けていたが、1本の映画が彼に衝撃を与える。58年に公開された日本初のカラー長編アニメ「白蛇伝」だ。小難しい理屈を並べず、純粋に人を感動させる娯楽性に打たれた宮崎は、「まさに目から鱗が落ちる思いだった」と言う。

 その後1度だけ、ある編集部に漫画作品を持ち込むも不採用。アニメに希望を感じ始めた宮崎は、63年にアニメ制作会社の東映動画に入社する。当初、まだ漫画家への思いがくすぶっていたが、そんな時ロシアのアニメ作品「雪の女王」に出会い、その可能性を確信したという。以降、TVシリーズ「アルプスの少女ハイジ」や「フランダースの犬」、「未来少年コナン」など、着実に実績を重ねていった。映画監督としてのデビュー作は、TVシリーズでも関わっていた「ルパン三世」の劇場映画第2作「ルパン三世カリオストロの城」。今でこそ不朽の名作として語り継がれる作品だが、公開当初は十分な評価を得られずにいた。その後の監督作品「風の谷のナウシカ」(84年)で、彼は最高のパートナーとなる鈴木敏夫と出会う。78年、当時雑誌「アニメージュ」の編集者であった鈴木は、宮崎の才能に惚れ込み、徳間書店の社長(当時)、故徳間康快に「宮崎駿で劇場アニメを作りたい」と提言。宮崎は自身のコミックを原作として、初のオリジナル作品「ナウシカ」の制作に取りかかる。

 映画は一応成功を収めたものの、制作拠点であった会社が倒産。新たな拠点作りに迫られた宮崎は、鈴木とともにスタジオジブリを立ち上げた。しかしそのスタートは平坦なものではなかった。ジブリ発足後の第1作「天空の城ラピュタ」、それに続く「となりのトトロ」など、今では名作と言われている数々の作品も公開当時は成功とは言い難く、スタジオは赤字続きで困窮を極める。

 だが日本テレビ放送網や各企業とのタイアップが功を奏し、「魔女の宅急便」が記録的ヒットに。「紅の豚」「耳をすませば」と右肩上がりに数字を伸ばし、「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」の大成功で不動の地位を築いた。時代の風は宮崎に吹き、まさに順風満帆の感があるが、本人は「今、日本アニメ界は危機的状況にある」と言う。

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