自由化の中、海外戦略を果敢に遂行
戦後、大西の入社(48年)後しばらくの間、フィルム産業は、外国資本の国内直接投資制限や、映画・一般用写真フィルムの輸入制限または高関税などで国により保護され続けた。当時としては、珍しくなかった国内資本の育成策である。
だが、実のところ富士写の社内は、年ごとに緊張感を高めていった。早くも54年ごろから主力の映画用フィルムの輸入が、外貨割り当ての増加で拡大し始め、62年には一般用白黒フィルム、印画紙の輸入が自由化。さらに、63年からはGATT(関税・貿易の一般協定)による関税引き下げ交渉(ケネディ・ラウンド)が始まり、保護政策の見直しが動き出したからだ。
大西を含めた富士写の社員たちにとってこのことは次第に重圧となっていったはずだ。自由化の動きの向こうに、創業時の富士写を苦しめたフィルム業界の巨人、コダックの影が浮かんだからである。
語るのは当時の富士写社内の雰囲気を知る同社OBである。「あのころは、社内中でコダックに一刻も早く追いつけと言っていたね」。
裏にあったのは、「少なくとも、70年代まで一般用写真フィルムの品質に対する評価では、富士写はコダックに劣っていた」(ある業界紙記者)という事実。そして、「資本力では大人と幼稚園児ほども違っていた」(あるOB)という脆弱さである。
もちろん、保護政策はすぐに打ち切られようとしたわけではない。だが、自由化の動きの中で早期に規制がなくなるかもしれないという焦慮が、「コダックに潰される」恐怖感をもたらし、それが「早く追いつけ」へ転化したのではないか。入社時に伝え聞いただろう創業時の苦境、そしての時期の重圧が青年・大西に及ぼした影響は想像に難くない。企業の永続は容易なことではないという恐怖心である。
だが、富士写は重圧をシェア獲得ではね返した。50年代から60年代を通じて、国内に4大特約店と基幹ラボ(大型現像所)を中心にした販売網を張り巡らし、70年代には現在の高シェアを築き上げた。
4大特約店と基幹ラボを別働隊としながら、自社の営業マンたちが「どんな辺鄙へんぴな観光地でも売り込みに行く」(特約店の1つ、浅沼商会社長の勝岡武之助)猛烈な営業攻勢をかけるとともに、写真店の店主から消費者のフィルムへの苦情をかき集め、それを生かして製品の品質を上げるといった努力を地道に続けた成果である。
しかし、時代はまた急展開する。結局、78年3月末時点でも一般用カラーフィルムで20%もの高さで残っていた関税率が79年4月の東京ラウンド妥結で、83年4月から一気に4%に引き下げられることになった。さらに、同じころ、フィルムの感光材の主原料である銀の価格が暴騰。1年間で10倍になった。当時の年間使用量から計算すると、実に15年分の経常利益が吹っ飛ぶほどの高騰だった。
大西が社長に就任したのは、まさにその時期だった。大西が身の内に抱えていた企業存続への恐怖心が、憶病なほどの細心さと、一方での性急さに転化したとすれば、このころだろう。これだけ厳しい条件が重なれば、よほど細心に対策を考えないと企業の存亡にかかわるし、悠長にやっていてはとても追いつかないからだ。
大西は言う。「フィルムや印画紙というのは、もともと規格がグローバルスタンダードなのです。そして、世界には数えるほどしか企業がない寡占化市場でもある。その中で生き残るには、海外を目指さざるを得ない」。
だが、海外では「Fuji Who?(富士って何?)」(大西)だった。当然だろう。それまでの富士写には「海外戦略はなかった。あるのはただ、ひたすらコダックの真似をすることだけだった」(あるOB)。「フィルムの製品規格で世界標準を握るコダックに追随しないと海外で販売しようがなかった」(同)からだ。
大西が慎重に、しかし、急いで海外戦略を実行していったのは、それからだった。
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