目立たぬように世界3極体制を整備
海外工場建設の足跡を追うと、大西は取締役海外事業部長となって2年後の74年、ブラジルに同社初めてのフィルム、印画紙工場を建設。社長就任後は、オランダ(84年)、ドイツ(88年)、米国(89年)、中国(94年)と、工場を次々に建設している。
オランダ、米国工場には、それぞれ1000億円を超える投資をした。84年当時の売上高は5600億円ほどであり、89年でも7700億円である。その中で、これだけの投資をするとなれば、経営者としては性急のそしりを受けかねない行動である。しかし、その内実は慎重を極めた。
ブラジル工場は、日本からほとんど加工の済んだフィルム、印画紙の原板を輸出し、現地で最終の裁断、箱詰め加工をするだけのもの。オランダ以降の工場となると、まず印画紙の最終加工だけを行う工場から建設し、やがて印画紙の原板に薬液を塗布する工場、そして最後は原板から一貫生産する工場へと拡張。そこまでいってようやく今度はフィルムに移り、同じく3段階に分けて工場を建設していった。
結局、オランダ、米国工場とも最初の稼働からフィルムの一貫生産にたどり着くまでそれぞれ8年をかけている。さらにいえば、工場進出の順序自体も、世界最大の米国市場に最初から行かなかったのには理由があった。ブラジル、オランダなどで「海外生産、海外市場開拓のノウハウを蓄積する」(大西)というのも1つ。
だが、むしろ、世界の写真市場を握るコダックを「刺激しないようにしながら徐々にやっていく」(ある富士写役員)狙いがあった。こんなやり方だから目立たない。オランダ、米国工場にはそれぞれ巨額の投資をしながら、分散させているから、最後まであまり注目を集めることはない。
それでいて、気がつくと欧州、中近東、アフリカをオランダ工場、南北米大陸を米国工場、そして、アジアは日本の国内工場と、世界3極体制を整え、コダックとのシェア差を手の届くところまで詰めている。
せっかちでいながら、憶病なほどの慎重さがうまく作用し合う。発言にも派手さはなく、目立たないように目立たないようにしながら、最後に勝ちをつかもうとする。大西の真骨頂である。結果からみると、こういうのを「先見の明」というのかもしれない。実際、多少の阿諛を交えてか、富士写関係者からそういう評価も耳にした。
大西自身は若いころから輸出部、ニューヨーク事務所、海外事業部などで16年間を過ごした海外畑の出身。海外市場攻略の勘所を心得てはいるだろう。だが、富士写という企業を子細に眺めると、どうもそんな単純なものではないように思える。大西は、富士写の歴史とその置かれた経済環境に大きな影響を受けてきたようにみえる。
源流をたどれば富士写は、創業以来、存亡の淵に立たされ続けていた。富士写は34年、大日本セルロイド(現・ダイセル化学工業)から分離独立したが、早々に経営危機に見舞われている。コダックやドイツのアグファ(現・アグファゲバルト)がフィルムの値下げという“攻撃”に出たのが1つ。
さらに、国内映画会社が当時の富士写の主力製品だった映画フィルムの品質を危ぶんで使用反対を宣言した。このため、富士写は創業以来4期連続の大幅赤字に陥ってしまった。大西が入社するわずか14年前のことである。
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