コロンビアが狙い撃ちした日本のマーケット
太平洋とカリブ海に面し、アマゾンの熱帯雨林から標高5000メートルを超える北アンデスの山脈まで雄大な自然を有する南米コロンビア。標高約2600メートルの山岳地帯に鎮座する首都ボゴタは世界で3番目に標高の高い首都として知られている。
コロンビアはブラジル、ベトナムに次ぐ世界第3位のコーヒー生産国。アンデスの山腹に広がる産地の風景は、中米のそれとは一回りも二回りも異なるスケール感で旅人の心を躍らせるが、その感動と引き換えに国内移動は何かと苦労がつきまとう。高山病や寒暖差、舗装の貧弱な地方の道路事情といったコロンビア特有の環境は体にこたえ、20回以上の渡航を経験してもいまだ慣れることはない。

そんな遠い異国のコロンビアだが、コーヒーを通じた日本とのつながりは長く、深い。コロンビアコーヒー生産者連合会(FNC)が東京事務局を開設したのは1961年のこと。廉価・大量生産路線を進むブラジルとのすみ分けを意識し、マイルドコーヒーと呼ばれる高品質かつ高価格なコーヒーを武器としたコロンビアは、当時まだコーヒー消費が活発ではなかった日本、およびアジア圏に商機を見いだす。民族衣装のソンブレロとポンチョを身に着けたカフェテロ(コーヒー農家)のロゴマークを引っ提げて、官民一体の積極的なプロモーションを仕掛けたのだ。
日本市場向けに特別に設定された銘柄であるエメラルドマウンテンはその好例だろう。コロンビアで産出される宝石とアンデス山脈にちなんで名付けられたそのコーヒーは高級品の触れ込みで人気を博し、90年代には缶コーヒーの原料に採用されたことで広く一般にその名が知れ渡った。
そして現在、日本はアメリカ、ドイツに次ぐコロンビアコーヒー消費国。高級なブランドイメージはそのままに日本を一大マーケットへと導いた背景は、コロンビアならではの鮮やかな手腕があった。
重要視していなかったスペシャルティコーヒー市場
このような経緯もあり、日本の喫茶店では長らくコロンビア産のコーヒー豆はブラジル産コーヒー豆と並び重宝される存在だった。特に焙煎(ばいせん)人にとってコロンビア産は、微妙な火のさじ加減が必要な腕の見せどころとなる豆で、私が自家焙煎を始めた90年代には「コロンビアの豆が焼けるようになったら一人前」という言葉が流布していたほどだ。
自家焙煎コーヒー店でそうした技術論がもてはやされたのは、今ほど高品質な豆が入手できなかったという時代背景が大いに関係している。当時扱っていたのはコマーシャルコーヒーで、生豆の品質の至らなさを焙煎技術でカバーしていたのだ。
そんな私が「上物」のコロンビアコーヒーを知ったのは、ある勘違いがきっかけだった。ある日、問屋から届いた生豆の麻袋の柄がいつもと違うことに気づき、不思議に思いつつ焙煎してみると、これがうまい。うれしさのあまり思わず問屋に電話をしてみると、何のことはない、別のコーヒーロースター(焙煎業者)が発注した生豆が誤って届いただけのことだったのだ。

当時から高品質な豆はあるにはあったが、それを一介の自家焙煎店が入手するのは難しく、また同じ等級の豆であっても品質のばらつきは付き物。私たちが高品質な豆を扱えるようになるには、もう少し時計の針を進め、スペシャルティコーヒーの登場を待つ必要があった。
スペシャルティコーヒーを求めるバイヤーにとって最も入りやすいのが、コーヒー豆の国際品評会であるカップ・オブ・エクセレンス(COE)だ。99年からブラジルを皮切りに始まったCOEは、生産国が自国のコーヒー豆を披瀝(ひれき)する場であるとともに、バイヤーにとっても一流の生産者を知り、また生産者に認知してもらえるまたとない機会となる。
しかしそのCOEがコロンビアではなかなか開催されず、コロンビアコーヒーは私の中でやや疎遠な存在になってしまっていた。コロンビアは既存の商流、つまりコマーシャルコーヒーが十分に強く、新興のスペシャルティコーヒーのマーケットをさほど重視していなかったのだ。あるいは品質では自国に劣るとみなしていたブラジルが策定に関わったフォーマットに安易に乗りたくないという、コロンビアの自尊心も少なからずあったのかもしれない。
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