コーヒー先進国、エルサルバドルに落ちた影

 人口約650万人、面積は九州の約半分と中米で最も小さな国であるエルサルバドル共和国(以下、エルサルバドル)。中米で唯一カリブ海に接しておらず、約300キロメートルに及ぶ海岸線はすべて太平洋とのものだ。隣国のグアテマラとホンジュラスとともに中米北部三角地帯とも呼ばれ(主に負の意味合いで用いられる言葉ではあるが)、社会的・経済的に互いに似通った境遇を共有しているといえる。

 私は2003年から開催されるようになったコーヒー豆の国際品評会、カップ・オブ・エクセレンス(COE)がきっかけで現地に足を運び、多くの生産者と付き合うようになった。今回はその中からタイプの異なる2人にスポットを当てて話をしてみよう。ただその前に、少しだけエルサルバドルのコーヒー産業の歴史をおさらいしておきたいと思う。

 他の中米諸国と同じく、エルサルバドルにおけるコーヒー産業は長らく国家事業としての側面が強く、国が主導してコーヒー栽培の強化に努めてきた経緯がある。かつては国立コーヒー研究所によるコーヒーの品種研究も盛んで、例えばパカス種(これはエルサルバドルで見つかったブルボン種の突然変異種)とマラゴジッペ種を掛け合わせたパカマラ種は、同研究所生まれの人工交配種として有名だ。

エルサルバドルでは国家事業としてコーヒー産業に注力してきた(写真:Shutterstock)
エルサルバドルでは国家事業としてコーヒー産業に注力してきた(写真:Shutterstock)

 1970年代には世界有数のコーヒー生産国にまで上り詰め、黄金時代を謳歌するかに見えたが、一転、エルサルバドルのコーヒー産業に暗い影が落ちることとなる。その原因は79年から92年まで、足掛け14年にも及んだ内戦であった。

内戦が残した傷痕とブルボン種、そして国際品評会の開催へ

 私の初訪問は2003年になるため、内戦の実情を直接体験したことも、改まって現地の人々に当時の詳細を尋ねたこともない。それでもエルサルバドルの内戦が、時を同じくして起こった中米各国の内戦と質を異にするものであったろうと推察できる。

 他国と比べてエルサルバドルのコーヒー産地には、ゲリラに土地を占拠されてしまったり銃痕が残っていたりという内戦にまつわる生々しい話がやけに多いからだ。

 その理由の一つに国土面積が挙げられるだろう。エルサルバドルは首都のサンサルバドルから産地まで日帰りで簡単に往復できてしまうほどコンパクトな国だ。それゆえ内戦は局所的ではなく、国全体に及んだのだと考えられる。特に山間部はゲリラの根城になったことで、同一エリアにあった多くのコーヒー農園は直接的な被害を受けてしまったのだ。

 内戦による国内の混乱と疲弊は1992年の終結以降も重い足かせとなった。その結果、他国が推進していたコーヒー生産体制の現代化や国際マーケットへのプロモーションで、エルサルバドルは完全に乗り遅れてしまっていた。

 ただ不幸中の幸いというべきか、内戦に見舞われたがゆえに残ったものもあった。ブルボンという品種だ。ブルボン種は品質こそ優れていたが耐病性や生産性に劣ることから、他の生産国ではより優位な品種への植え替えが進み、かつてより栽培している国は少なくなっていた。しかし内戦の渦中にあったエルサルバドルでは他国のような余裕もなく、結果として主品種のまま残っていたのである。

 90年代当時のエルサルバドル産コーヒーを思い返すと、グアテマラ産と品質は似ていて日本人好みの酸の柔らかさがあり、生産処理の技術も安定しているとその評判は決して悪くはなかった。

 ただし中米系ではグアテマラ産が断然トップでエルサルバドル産はその下位ゾーンという扱い。他国では生産することが少なくなったブルボン種もありポテンシャルは感じられたが、実際の実力のほどはきちんと蓋を開けてみるまでは未知数とみなされていた。

 そしてその“蓋”は、2003年にようやく開けられることとなる。そう、COEがエルサルバドルで初めて開催されたのだ。

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