死ぬまで自分が何者かに悩む

 果たして自分は何者かになり得るのか、それともなり得ないのか。この問いだけになら、エリクソンもセールも同じ答えを与えることができそうです。どちらに従っても、おそらく何者かにはなれるのでしょう。なぜなら、仮にセールのいうエートルのような自分であったとしても、相手や対象によって変わる存在として、何者かではあるからです。

 現に私たちは、日ごろ相手や対象によって複数の自分を使い分けています。親としての自分、社員としての自分、地域の役員としての自分、あるいは最近だと副業も増えていますから、本業とは別の仕事をするときの自分といったようにです。

 問題は、確固たる自分はあるのかという点です。これもまた、固定されない自分を意識し、受け入れているなら、確固たる自分といえるような気がします。何にも影響されることなく、全く変化しないのが確固たる自分だとしたら、それこそあり得ないのではないでしょうか。エリクソンでさえ、経験や環境によって自分が変化することを前提にしています。

 結局、自分とは、それがある程度確立されていようが、固定されていなかろうが、変化することを運命づけられた存在であることは間違いなさそうです。だからこそ、何者なのかという悩みは死ぬまでつきまとうのです。生きている限り、自分とは「形成された」ものではなく、常に「形成されつつある」ものなのではないでしょうか。

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