人の営みの中で生まれた悩み。数千年前、哲学者たちも同じことを悩んできました。毎回、現代人の悩みごとを2人の哲学者の視点で切り取ります。モヤッとしていた悩みの解決策は、哲学に答えがあるはずです。

 生きるということは、選択の連続です。物心ついた頃から、どのお友だちと遊ぶかなどを決めなければなりません。その後はもっとリアルです。どの学校に進むか、どこに就職するか、どんな人と結婚するか……。

 日々選択の連続だと言っても過言ではありません。仕事上の判断やレストランでの注文など、私たちは1日に何度選択していることか。1日数万回の選択をしているという論文があるほどです。無意識の選択まで含めるとすごい数です。

 果たして人生において選択をしたほうがいいのか、流れに身を委ねたほうがいいのか、実はこれは永遠のテーマなのです。今回はこの「選択」問題について考えてみたいと思います。

キルケゴール「人生はあれか、これかで選べ」

 まず選択したほうがいいと考える立場の代表格がデンマークの哲学者、キルケゴールです。彼には『あれか、これか』という著書があります。

 キルケゴールは、人生には「美的選択」と「倫理的選択」の2つがあると言います。美的選択とは、享楽的に人生を過ごすという道です。それに対して、倫理的選択とは、悩みながらも自分で人生を切り開いていく道を指します。

 言い換えると、人生には楽な道と苦しい道の2つがあるということだと思います。そんな中で、多くの人は楽な道を選んでいるのでしょう。ただ、それで満足のいく人生を過ごせるのかどうか。私の経験上、楽な道を選んだときはいつも後悔します(ちなみに、芸術家の岡本太郎は「私は人生の岐路に立ったとき、いつも困難なほうの道を選んできた」という名言を残しています。そう断言できる人生は素晴らしいですね)。

 どんな結果になるにせよ、苦しい道を選んだほうが、納得のいくものになるのは確かなようです。自分で乗り越える努力をしなければならないからです。乗り越えられれば納得がいきますし、そうでなくても「やれるだけのことはやった」という満足感が残ります。

 そう考えると、苦しい道、つまり倫理的選択をしたほうがいいということになりますが、キルケゴールもそう考えていたようです。「あれか、これか」の選択があると言いながらも、キルケゴールは悩んだ揚げ句、選ぶべき道は決まっていると言いたかったのだと思います。

 彼はそれを「自分自身を選ぶ」と表現しています。いわば何をすれば自分が満足できるのかを見極めていれば、おのずと正しい選択ができるはずだということです。

 それは倫理的選択にほかなりません。それならば、最初から「あれか、これか」の選択などする必要がないようにも思いますが、決してそうではないのです。悩んだ末、倫理的選択をすることが大事なのです。人生には間違った選択もあるのですから。

 正しい選択をすることで初めて、私たちは人生を主体的に選んだことになり、人生はより充実したものになるのです。キルケゴールが、自分で人生を切り開くという実存主義の先駆者とされるのはそうした理由からです。

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