1913年、07年の金融恐慌の教訓として設立された「米連邦準備制度(FED)」。金融機関の監督規制および金融政策によって金融危機を未然に防ぐことが期待されていた。しかし、設立からわずか10数年後、FEDの意思決定機関「米連邦準備理事会(FRB)」の判断ミスが要因となって、新たな恐慌が起きようとしていた。
前編「ウォール街の株大暴落の遠因となったもう一つの金融恐慌で起きたこと」はこちら
29年の世界恐慌に先立って1907年10月に起きた金融恐慌は08年の11月まで続き、株価を大きく押し下げ、30以上の銀行(含む信託銀行)を破綻に追いやった。金融危機は著しい景気減速をも引き起こし、米国経済は実質国民総生産(GDP)で約10%も落ち込んだとされる。
当時、米国には1万8000もの銀行があり、そのほとんどが小規模だった。これらの無数の銀行間の連携を強化し、危機時の最後の貸し手としては主要商業銀行によって1853年に設立された「クリアリング・ハウス」が存在していた。しかし単なる民間団体にすぎず、十分な危機対応力を有していたとは言えなかった。そして、1907年の金融恐慌を脱するための資金集めに奔走したのは役人でも政治家でもない、銀行家のジョン・ピアポント・モルガンであった。つまり、国内の金融危機を民間の力だけで乗り切らなければならなかったのだ。
07年の経験から連邦準備法を成立させた
当時の米国には中央銀行に該当する中央機関が存在しなかった。幾度となく中央銀行設立の議論は議会でなされたが、政治的な対立によって成立することはなかった。しかし、07年のような資金需要逼迫から生じた金融恐慌は、完全に避けることは難しくても、中央銀行の存在によってその悪影響を緩和させることは可能であっただろう。
こうした金融システムの脆弱(ぜいじゃく)性によって金融恐慌がもたらされたとの反省から、米国議会はようやく金融規制監督の権限を集約した中央銀行の設立を検討し始めた。いつの世も大ごとになってからでないと、政治は問題解決に動かないのだろう。
そして、13年12月、第28代米国大統領のウッドロウ・ウィルソンのもとで「連邦準備法(Federal Reserve Act)」を成立させ、今日まで続く米国の「連邦準備制度(FED)」の基礎を確立した。当然、米国初の中央銀行が誕生したことによって、07年の金融恐慌の再来を防ぐことを期待していたのだった。
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