「政敵」新井白石により罷免される

 こうした経済の混乱ぶりを見て激怒したのが新井白石であった。第6代将軍・徳川家宣(1662~1712年)の侍講(家庭教師)であった白石は、一連の改鋳に対して反対の立場をとっていた。幾度となく家宣に対し重秀の罷免を求めていたが、失敗していた。白石の企てが実を結んだのが12年。3度目の正直と家宣に提出した弾劾書が受け入れられ、ようやく重秀は解任される。罷免の明確な理由は現在でも明らかになっていない。重秀は、罷免のわずか1年後に失意のうちに獄死したという説まであるのだから、勘定奉行にまで上り詰めた彼にとっては寂しい晩節であった。

 さて、邪魔者を排斥した白石は、念願であった貨幣の再改鋳を実行に移す。実は、貨幣改鋳に対する意見の相違こそが、重秀を勘定奉行から蹴落とすほどに嫌悪した理由である。白石は貨幣に使用される金銀を神聖視していたと伝えられ、度重なる改鋳によって金銀の品位を下げた結果、天災が起きたとする見解を持っていた。そのため、神聖なる金銀の品位を落とす、ならず者の重秀をなきものにしたいと考えたのだろう。そして、重秀を罷免後、将軍に直接進言できる立場となった白石がまず推進したのは貨幣の品位を改善させる再改鋳であった。

18世紀前半の徳川財政は、公共事業の急増や相次ぐ天災により疲弊していた(写真:PIXTA)
18世紀前半の徳川財政は、公共事業の急増や相次ぐ天災により疲弊していた(写真:PIXTA)

 14年の「正徳の改鋳」では、小判1枚に含有される金量を、改鋳前の慶長小判の水準まで戻した。旧貨幣との交換レートは、金含有量によってまちまちとなり、慶長小判であれば1対1であったが、元禄小判と宝永小判は2対1と著しいディスカウントを強いられることとなった。

 改鋳の結果、流通貨幣量は減少し、元禄バブルによって過熱したインフレ圧力は緩和され、デフレ環境へと移行したとみられる。なお、重秀を蹴落とし、念願であった改鋳を実現した白石だったが、わずか8歳で早世した徳川家継(1709~1716年)の後を継いだ徳川吉宗(1684~1751年)のもとであえなく失脚した。

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