前回記事『江戸のMMT? 元禄バブルの“元凶”貨幣改鋳は悪手だったのか』では、財政赤字を是正するために大胆な貨幣改鋳を進めた荻原重秀について紹介した。財政の逼迫(ひっぱく)から逃れた徳川幕府であったが、それをねたましく思う人物が幕府に存在した。

江戸時代前期の貨幣経済を支えた慶長小判を改鋳するという「なんでもやる」施策は、何をもたらしたのか(写真:PIXTA)
江戸時代前期の貨幣経済を支えた慶長小判を改鋳するという「なんでもやる」施策は、何をもたらしたのか(写真:PIXTA)

 重秀は改鋳の功績として給与報酬である禄高(ろくだか)が加算され、勘定方のトップである勘定奉行へ昇進した。以降の重秀は、勘定奉行として長崎貿易の改革や幕臣の給与制度改革を推し進めた。東大寺大仏殿の再建という10万両を要する巨額プロジェクトの資金調達にも成功。勘定奉行としての名声は高まる一方であった。

度重なる改鋳が元禄バブルを生んだ

 しかし、大仏殿の資金調達完了の喜びもつかの間、天災によって幕府財政は一気に悪化することになる。元禄の大地震(1703年)、宝永の大地震(07年)そして宝永の富士山大噴火(07年)が立て続けに発生。数万人の死者を出すだけでなく、多くの建築物が火事によって焼失したり、倒壊したりした。

 大災害からの復興には財政出動が必要だ。しかし、元禄の改鋳で一時的に潤ったとはいえ、幕府財政は相変わらず厳しい。さきの東大寺大仏殿の再興といった公共事業によって支出が増えただけでなく、噴火による天候悪化や死者数の急増による労働力減少が、年貢高の著しい減少を引き起こしたからだ。復興のための資金調達という重秀の苦難がふたたび始まった。

 天災によって疲弊した幕府財政を危機から脱出させるための方策は、やはり貨幣改鋳の他なかったのだろう。重秀は、10年以降、複数回にわたって銀貨の改鋳(宝永の改鋳)を断行した。元禄の改鋳を上回る約600万両もの出目(通貨発行益)によって幕府財政はふたたび改善したかのように見えた。だが、度重なる改鋳によって貨幣流通量は激増。通貨の供給過多により、今度こそインフレ圧力が劇的に高まった。米価にいたってはわずか4年間で80%もの価格高騰に見舞われた。これこそが、「元禄バブル」が形成された背景だ。

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