先物取引がコールオプションに強制変換

 供給の増加に合わせて価格が下落し始めると、投機家はこぞって球根の売却を始めた。極めつきは、先物取引の後付けルールだ。将来の取引価格を約束する先物取引では、期限が来たらいや応なく買い手は約束した金額で商品を購入しなければならない。当然売り手も、いくら先物取引成立時よりも商品価格が高騰していたとしても、約束していた価格以上では売り渡すことはできなかった。しかし、1637年2月にチューリップ販売業者の業界団体が先物取引のルールを突如として変更した。後に、オランダ議会によって追認されることになる新ルール下では、契約の買い手は額面の3.5%を手数料として支払うだけで、売買契約を破棄できるとされた。つまり、先物取引がオプション取引(コールオプション)に変貌したのだ。

 オプション取引とは、将来のある時点に決まった価格で商品を売り買いする契約であり、先物取引とよく似ている。しかし、オプション取引の場合、買い手側がこの契約を破棄できる点が異なる。オプションの買い手はコストを支払うだけだ。これではトレーダーの買い意欲はかき立てられる一方だ。球根の先物価格は最高潮を迎える。酒に酔ったトレーダーは強欲にも回転売買を繰り返し、借金をしつつレバレッジを利かせてコールオプションを買いあさった。トレーダーが投機家になったのだった。

 この新ルールは買い手の破産が相次ぐことで、バブル崩壊が経済全体に波及することを防ぐために導入されたものであった。買い手は、価格が暴落した球根を高値でつかむ必要がなくなったため、こぞって手数料を支払ってポジション解消にいそしんだ。そして、チューリップの需要はほとんど消えうせてしまったのだ。

供給増と需要減によってバブルは終焉

 供給が増え需要が減ったチューリップの価格の行く末は言うまでもない。売り手は収穫した球根を売りさばくために価格を引き下げる他なかった。売りが売りを呼び、チューリップの取引価格は地に落ちた。1637年5月にはすっかりバブル以前の価格に落ち着いてしまった。チューリップ・マニアの終焉(しゅうえん)だ。

 チューリップマニアの影響はというと、先物取引の新ルール導入が功を奏したのか、不況を招いたとの証拠は見当たらない。では、金融市場への影響はどうだったのだろうか? 驚くなかれ、1602年8月には世界初の株式取引所がアムステルダムに開設され、オランダ東インド会社が世界初の株式上場を実施するなど、17世紀初頭にはすでに株式マーケットが存在していた。当然、チューリップマニアと時を同じくして株式は取引されていたが、株価はバブル崩壊の影響をほとんど受けなかった。これはひとえに、チューリップバブルが単なるコモディティーバブルであり、金融システムを揺るがすほどの資産バブルではなかったためだと考えられる。

 「バブル」とひとくくりにされがちだが、悪影響の深度と範囲は金融危機を誘発するかによって大きく異なる。チューリップマニアは、ごく一部の市場(それも主に飲み屋)において、ごく短期間で終焉したため金融経済に波及することはなかったのだ。それにしては今日まで非常に有名なバブル事件になったのだから、たいしたものだ。

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