食事を楽しむのではなく、必要な栄養素さえ効率的に摂取すれば十分だという考え方から生まれた「完全栄養食」。2014年に液体の「食事」として誕生し、今では効率的に必要な栄養素を取れる食品として粉末、飲料、バー、パンなどの形状で広まっている。一方、世界でオーバーカロリーによる肥満や、栄養の偏りなどによる健康リスクが高まり、健康を維持するための食事としても注目され始めている。21年には日清食品が既存のメニューを完全栄養食にする新規事業に乗り出すと宣言した。完全栄養食は未来の食事としてどのような地位を築くのだろうか。

(写真:PIXTA)
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完全栄養食はどうやって生まれたのか

 1973年に公開された米映画『ソイレント・グリーン』という作品をご存じだろうか? SF映画の1ジャンルであるディストピアものと呼ばれる、反理想郷的な未来を描いた名作だ。

 人口増加により食料危機に陥り一般大衆が食べ物にありつけない時代。ソイレントという企業が合成食品を生産・配給し、多くの人々は生きるため、それに頼って生きているという状況が描かれている。主人公役のチャールトン・ヘストンが、その合成食品の原料を暴くといったストーリーだ。ネタバレを避けるため詳細は割愛するが、ディストピアらしさが色濃く表現された作品だ。

 完全栄養食が製品として世に出たのは2014年。その名も「ソイレント」。例えるならば、『13日の金曜日』や『エイリアン』を商品名に付けるようなものである。その後、他社も完全栄養食の販売を始めたが、米国で完全栄養食といえばソイレントをイメージする人は多い。

 ソイレントを生み出したのは、ソフトウエアエンジニアのロブ・ラインハートという人物だ。彼はYコンビネーターと呼ばれる著名なベンチャーキャピタルから出資を受け、スタートアップ企業を立ち上げようとしていた。だが、このプロジェクトは当初の事業計画通りには進まず、手持ちの資金がショートする危機がすぐそこに迫っていた。そんな中、ラインハートは苦肉の策として、事業のバーンレート(Burn Rate、収益を確保するまでに資金を消費するペース)を小さくするため、食費を極限まで削ることを思いつく。

 ラインハートは人間が生きていくには、35種類の必須栄養素があればよいと考え、タンパク質、炭水化物、ビタミンなどを粉末状にし、それを水で溶いた液体を「完全栄養食」とした。そして、それだけを摂取して生活することにした。「食事」をやめ栄養素だけを取り込むという異様な試みは多くの人から注目を集め、自分もやってみたいという人が続出。彼はレシピを無料で公開していたが、想定以上に注目を集めたことで、完全栄養食はビジネスになると思い立ち、事業として立ち上げることにした。

 完全栄養食には批判も出たが、事業立ち上げのために実施したクラウドファンディングでは、200万ドル以上もの資金調達に成功。さらに2000万ドル以上の資金提供も受け、事業は軌道に乗った。現在は、ドリンクタイプやバータイプなどのソイレントを販売している。

「健康のための完全食」は広まるか?

 完全栄養食という言葉自体は理解できる。必要栄養素がすべて入っている食事ということだ。だが、そればかりを食べていて体に悪くないのか? 多くの人がそんな疑問を持つかもしれない。毎日同じ食事をしている偏食家は栄養素の偏りで不健康になる。だが、ソイレントのように必要な栄養素をバランス良く含んでいるなら(味に飽きるかもしれないが)、健康不安は生じないようにも思える。

 ソイレント創業者のラインハートは、アレルギー反応が減り、体調は良好になったと度々述べている。食事のコストが下がり、毎日の食事を考える手間も減る。そして体調が良くなるなら、ソイレントは素晴らしい発明なのかもしれない。だが、ソイレントを激賞する支持者がいる一方、頭痛や腹痛により普通の食事に戻したという人もいる。また、16年10月に出荷した新商品のフードバーでは体調不良を訴える人が続出し、販売と出荷を停止している。未来の食事体験は、実験の域を出てはいない面もあるようだ。

完全栄養食品が食事のメインになったら、食事はバラ取りましょう取りましょうといったアドバイスはなくなるかもしれない(写真:PIXTA)
完全栄養食品が食事のメインになったら、食事はバラ取りましょう取りましょうといったアドバイスはなくなるかもしれない(写真:PIXTA)

 とはいえ、その後も完全食は広がりを見せ、食品業界では静かなブームとなっている。メーカーとしてはソイレントの他に英国発のHuel(ヒュエル)があり、日本ではCOMP(東京・渋谷)やベースフード(東京・目黒)などが有名だ。粉末、液体、バー、グミ、パン、クッキーなどの形状で提供されている。さらに既存の食品メーカーとして、19年に日清食品が参入。まぜそばタイプの完全栄養食「All-in NOODLES」という商品を投入した(現在は生産停止中)。

 だが、日清食品は完全栄養食を諦めたわけではないようだ。21年5月には、中長期成長戦略において「完全栄養食」を新規事業として推し進めるとした。ただ、目指すのはこれまでの「完全栄養食」とはやや趣が異なる。

 食事のおいしさや楽しさは二の次としているソイレントとは違い、日清食品の完全栄養食品のコンセプトは「見た目やおいしさは(既存のメニュー)そのままに、カロリーや塩分、糖質、脂質などがコントロールされ、必要な栄養素をすべて満たす食」だ。例えば、カレーライス、トンカツなど既存のメニューを完全栄養食化することを目指している。21年5月下旬には、伊藤忠商事と協業し、同社の社員食堂で「完全栄養食メニュー」を提供するなど試験的取り組みも始めた。

 映画「ソイレント・グリーン」の舞台は22年だ。現時点の先進諸国は映画のような食料危機に陥っているわけではない。だが、日本の食料自給率は他国と比較するとかなり低い。今後全世界の人口増や、温暖化・気候変動による農作物の不作などが続けば、食料危機にならないとは言い切れない。日本は食料を輸入に頼る比率が高いため、円安による食料コスト急騰の影響も受けやすい。

 そういった状況下で通常の食事を「お金がかかる嗜好品」「節約できるコスト」と考えるようになる人が増えたら、完全栄養食は実験的な食事ではなく、頼らざるを得ないコストカット食品となるかもしれない。もちろん、食料危機が来なくても、これまでのように効率的に食べられる食品として、広まり続けることも考えられる。一方、日清食品が目指す、既存の食品を「健康のための完全食」にするニーズも高まる可能性は高い。完全栄養食品がどのようにして社会のニーズ応えていくのか、それとも消えていくのか、行方が興味深い。

(執筆者=安部涼)

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