ステーキは沼である。焼いた数だけ上手にもなるが、焼くほどに難しいと感じられるようになったりもする。「焼けるようになった!」という歓喜のすぐ向こう側には思うようにいかない現実があり、それを克服したときにはステーキの階段をまた一段上っている。だが、また目の前には別の扉が立ちはだかっている。
そう、ステーキを焼くことは人生や仕事に対峙することと同じなのだ。そこにある難しさを理解し、克服するメソッドを身につけあらたな課題へと向き合う。そうして焼きを繰り返すたび、焼きの精度は上がり、肉への理解は進んでいく。
いいステーキには欠かせない要件がいくつかある。調理する側の視点だとこうだ。
1. 肉表面に焼き目がしっかりついている。
2. 肉の内部が温まっている。
3. 肉汁が失われていない。
食べる側の視点だとこうなる。
1. 肉は香ばしく、こんがりとしておいしそう。
2. ナイフを入れた断面がロゼ色で美しい。
3. 肉は柔らかく、かむと肉の繊維の間からジュースがあふれる。
科学的な言い方に変換すると次のようになる。
1. 表面は脱水され、メイラード反応が起きている。
2. アクチンは変性せず、ミオシンが変性している。
3. 内部の筋繊維は収縮しておらず、十分な水分を保っている。
実はこれらすべては同じことを指している。
この10年ほどで科学調理に対する理解は劇的に深まった。「科学」や「科学的」という言葉に必要以上に難しいイメージを抱いたり、過度な何かを背負わせようとしたりする人がいるが、「科学」とは客観的な事実を理解するための共通言語である。
だから少なくとも調理の場合、感覚で理解できる人に科学的な説明は必要ないし、科学的な説明ができる人が料理上手とも限らない。昭和の野球界の大スター長嶋茂雄の口から、緻密な野球理論など聞いたことがないし、スポーツの理論にどんなに詳しくても実技がヘタな人などいくらでもいる。
とはいえ、かんたんな科学的用語やアプローチは理解していたほうがイメージは共有しやすくなるし、誤解も少なくなる。精度を高めるためにはとても便利なので使えるところは使っていくといいと思う。
上記いずれの視点でも、1~3の"要件"は牛肉を安全においしく焼いて食べるための指標でもある。そして肉焼きを理解しながら、もっともシンプルに家庭で実現できるのがステーキなのだ。
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