国三が掲げた理念、顧客ファースト

 小池国三商店は「顧客主義」、今で言う顧客ファーストを掲げて営業を開始。まず、国三が頼ったのは自らのルーツである甲州人脈であった。若尾家の企業や地元甲州の実業家を顧客として抱え込んでいった。彼らの取引の秘密を守り、可能な限り株式市場で取引をせずに、相対取引で株を売買していった。こうした取引方法によって、他の仲買人からは再び煙たがられる存在となった。しかし、噂などを拡散することで不当に株価操作を行う仲買人に取引内容が漏れることを防ぎ、顧客ファーストの理念を守り続けた。

小池国三の出身地である甲府市の眺望(写真=PIXTA)
小池国三の出身地である甲府市の眺望(写真=PIXTA)

 こうした理念を貫くことで、甲州の実業家以外からも注目を集め、瞬く間に小池国三商店の取引量は拡大。創業からわずか5年後の1902年(明治35年)には、東京証券取引所に納入する手数料ランキングで業界5位の地位にまで上り詰めた。

 創業から10年後の1907年(明治40年)に増資の上、小池合資会社へ改組。その後は、現物取引業務だけでなく、株式や債券の発行による資金調達を支援する「引受業務」に活路を見いだした。そして1909年(明治42年)の国債の下引受、1910年(明治43年)の江之島電気鉄道社債元引受など、日本の証券業者として引受業務に参入していった。

 その後、1917年(大正6年)には小池合資を銀行業務が主業務の「小池銀行」と、株式や債券の引受・取引に従事する「山一合資会社」とに分割。小池銀行は、1911年(明治44年)に買収した商栄銀行を改称したもので、もともとは引受に特化した金融機関だった。国三は証券取引業務から身をひき、小池銀行の株式の40%に出資する大株主として経営に関与し、山一合資の社長の座は後任に譲った。

 この山一合資こそが、のちの山一証券となる会社であった。ちなみに、「山一」は、若尾家の商号である「山市(やまいち)」からとったとされている。株式取引とビジネスの基礎をたたき込まれ、自らのビジネスの原点となる若尾家への尊敬の念を忘れないためであろう。

 山一合資を初代社長として率いたのは、日本銀行から株の仲買人に転身したという異色のキャリアを持つ杉野喜精(すぎの・きせい)。杉野は、国三の理念を引き継ぎ、相場の操縦、投機性の高い取引を禁止するなど顧客主義を掲げた。1926年(大正15年)には山一證券株式会社に改組。実は、「證券(証券)会社」と社名に付けたのは山一証券が最初だった。今でこそ「証券会社」という呼称は一般的だが、証券とは本来公社債を意味しており、証券会社と名づけることで公社債に強い会社であることを印象づけようとの狙いがあった。その後の山一証券は引受業務に注力し、大手証券会社の一角を担うことになった。

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