強い野望が国三を東京日本橋に向かわせた

 その後、国三は大抜擢され、山梨県南巨摩郡の金鉱の支配人という要職を与えられる。高額なボーナスや株券が支給されるなど、ここでも高待遇を受けたことから、東京で事業を起こすとの野望は一旦消えたかと思えた。

 しかし、国三への若尾逸平からの期待とは裏腹に、金鉱事業は失敗に終わる。この失敗によって失意に陥るよりも、国三の野望の炎は再び燃え上がった。そして、ついに国三は若尾家から独立する決心をする。1895年(明治28年)、国三が28歳のときであった。

 1897年(明治30年)には日本橋兜町に株式の仲買を商売とする小池国三商店を立ち上げた。このベンチャー企業の経営には若尾逸平の教えが大いに生きた。株の先物取引では取引の期間別に価格の偏りがあることを見抜いた国三は、異なる限月(先物の期限が満了する月)の取引で売り買いをしてさやを抜く「裁定取引」によって利益を積み上げた。

 こうした国三のさや抜きは、他の株式仲買人からはよく見られなかった。業界内では「市場を大局的に見て、大きく投資をする」ことが投資の基本とされており、国三の手法は垢(あか)をかき集めるようなやり方から「垢抜き」と揶揄(やゆ)されることも少なくなかった。

 こうした批判を意に介せず、国三はむしろ旧来の株式仲買人のやり方から脱却すべきとの考えを持っていた。若尾の下で株の買い占めを進めていた時の経験では、仲買人は実需(実際の需要)を取り扱う誠実な存在ではなく、買収の噂などを拡散して値上がり益をかすめ取り、市場をかく乱する「邪魔な存在」でしかなかった。

 資本市場をかく乱するのではなく、株式を必要とする投資家の取引を実直に支援することこそが仲買人の仕事だと国三は考えていた。さや抜きはこうした彼の理念を実現するための資金集めにしかすぎなかった。

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