かつて山一証券の本社があった茅場町タワー(写真=PIXTA)
かつて山一証券の本社があった茅場町タワー(写真=PIXTA)

100年を超えて興隆を続ける企業もあれば、終わりの時を迎える企業もまた存在する

 1997年11月24日、当時大手証券会社の1つだった山一証券は自主廃業を決めた。当時の社長であった野澤正平は廃業に際して記者会見を開いた。かの有名な「社員は悪くありませんから」「皆さんが力を貸していただいて、再就職できるようにこの場を借りまして、私からもお願いいたします」と社員の再就職を世間に懇願した会見を覚えている人も多いだろう。社員を守る経営者の鏡として称賛する人もいたが、大勢の報道関係者を前に号泣しつつ訴える姿は、かつて国際金融の雄として栄華を誇った山一証券の凋落(ちょうらく)そして日本のバブル崩壊を強く印象付けた。

 今でこそネガティブなイメージが付きまとう山一証券だが、その創業ストーリーは創業者の小池国三(こいけ・くにぞう)の「業界慣行を変えたい」という意欲と野心があふれるものであった。

甲府の貧しい商人から起業家へ

 国三は1866年、甲斐国の甲府(現在の山梨県甲府市)に生まれた。商人の家庭で育ったが、家業はうまくいかず決して裕福な暮らしではなかったという。11歳の時に、同じ甲斐生まれの若尾逸平(わかお・いっぺい)のところへ丁稚奉公に出ることとなった。若尾は行商人から東京電燈(現在の東京電力)などの大企業を買収し傘下に収める投資家に成り上がった実力者。その若尾家での奉公はたいへん厳しいものであり、先輩の女中や番頭からいびられ続けたという。朝は早く夜は遅い毎日の中でも、暇を見つけて勉学に励んだ。

 実直で勤勉だった国三は、主人の逸平から次第に評価されるようになった。秘書格にまで出世し、高待遇を受けていた国三だが、もっと大きい仕事がしたいと何度も若尾家から出奔した。その度に家族や若尾家によって甲府に連れ戻されることに。若尾は、国三の素質を見抜き、「なんとしても手放すまい」とあらゆる手段を講じたのだ。

 若尾家では逸平の右腕として、家業である生糸の売買だけでなく、株式取引にも従事した。若尾は株式投資で莫大な資産を築き上げた投資家でもあったことから、株式取引の基礎もたたき込まれた。この時の学びが、後の創業につながることとなる。

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