前編「シャープの歴史をひもとけば波乱の歴史が見えてくる」では、早川徳次の苦労の人生を紹介した。継母からいじめられ、奉公先の苦境時には再起に向け寄り添った。そんな彼は、海外からも求められる名品、シャープペンシルを大ヒットさせる。だが、虎の子だったシャープペンシル事業は、関東大震災で打撃を受け、やむなく事業をまるごと譲渡することになる。多くの人から止められたというシャープペンシル事業の譲渡。早川は揺るがなかった。だが、周囲の不安は的中することに……。
シャープ・ラジオの登場
再度起業することになった徳次だが、シャープペンシルの次に取り組むべき製品を考えあぐねていた。そんな折、新聞でラジオ放送が開始されるとの報道を目にする。徳次はすぐさまラジオ受信機の開発を決意した。当時、国産のラジオ受信機はなかったが、縁者が米国から輸入した鉱石ラジオのうち1台を購入。それを分解し、構造を学んだ。
徳次も従業員もラジオに関する知識は全くなかったが、1925年(大正14年)に日本初の国産ラジオ受信機(シャープ・ラジオ)を発売。ラジオの試験放送が同年6月より大阪で開始される中、米国からの輸入品の半額以下で買えるとあって、シャープ・ラジオは飛ぶように売れた。

シャープ・ラジオの成功によって、再起に成功したと思われたが、徳次にふたたび苦難が訪れる。会社資産を差し押さえるため、突然、裁判所からの執行吏(昔の執行官)が会社に訪れたのだ。融通金(債務の返済手付金)を執行吏に支払い、ギリギリのところで差し押さえを逃れたものの、徳次には理由が一向に分からなかった。
実は、シャープペンシル事業を譲渡したものの、経営に行き詰まった譲渡先の企業が「譲渡ではなく貸与である」として、借金の即時返済を迫る訴えを起こしていたのだ。徳次は、「借金は解決済み」としてすぐさま譲渡先の会社に応訴した。ラジオの製造販売は活況であったものの、依然として資金繰りは厳しく、裁判費用が重くのしかかった。結局、事業譲渡の証拠を書面で残していなかったため、借金返済義務を負う示談を受け入れることになってしまった。
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