経営破綻の危機から2016年に鴻海(ホンハイ)精密工業の傘下に入り、18年3月期には4期ぶりの最終黒字となったシャープ。かつてテレビ事業で栄華を誇った総合電機メーカーの再建は苦難の連続だったが、創業者・早川徳次の人生もまさに波乱に満ちたものであった。

 コロナ禍にもかかわらず、シャープの20年度決算は好調だった。空気清浄機やディスプレーの売り上げが大幅に伸びたことや、追加的なコストカット策が功を奏し、営業利益は前年比62%増、最終利益に至っては前年比3.9倍もの大幅な増益を記録した。今でこそ、シャープは好調な企業決算となっているが、ほんの数年前までは巨額の赤字を出し続け、経営破綻の恐れがあるほど低迷していた。

 こうした苦境から立ち上がりつつあるシャープの姿は、創業者・早川徳次に重なる部分も多い。国産初のラジオや白黒テレビを手がけた「シャープ株式会社」を一代で築き上げた創業者は、苦境の連続にもかかわらず幾度となくはいあがった。

幼少期は継母の虐待に耐える日々

 早川徳次は、末っ子として1893年(明治26年)の東京・日本橋で生を受けた。しかし、生みの母が病気がちであったこともあり、わずか2歳で養子に出された。その後、徳次は実の父と母に会うことはかなわず今生の別れを経験した。

 徳次は深川の長屋で魚のはらわたを集める肥料屋をなりわいとする男に引き取られた。養父は優しい性格であったが、大の酒飲みで、最初の養母は養父の酒飲みがたたって逃げてしまった。その後、新しい継母が嫁いできたが、徳次は継母による度重なるせっかんや暴言、食事を与えないなどの日常的な虐待に苦しんだ。それだけではなく、毎晩夜中まで内職を強いられ、養父と継母の間にできた子供の子守をさせられ、子供らしい生活を送ることができなかったという。

 そんな境遇をふびんに思った養父。養子を受ける際の契約として「普通以上の学業を学ばしむること」という条文があったこともあり、徳次を小学校に入学させる。当時、就学義務はあったものの就学できない子もいる中、養父が資金を出して小学校に通わせた。昼間は学校、夜は夜中まで内職という生活を送っていたが、学校に通える喜びをかみ締めていた。しかし、それも長くは続かず、継母によって3年生になる直前で学校をやめさせられることに。その後も、虐待はやむどころか激しさを増すばかりであり、くみ取り式便所に蹴落とされ高熱を出したこともあったという。

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