最終的には、ドイツ銀行の支援のもと89年5月にスイスの企業、コサ・リーベルマンにプーマは売却され、プーマは一族の手から完全に離れることとなった。こうした決断の背景には、アーミンの体調悪化もあった。業績悪化のタイミングから体調を度々崩し、その後、90年10月にがんで死去している。

 その後プーマは2007年に、グッチやイヴ・サンローランといったブランドをグループ内に抱える仏アパレルブランド複合企業、PPR(ピノー・プランタン・ルドゥート、現在のケリング)によって再び買収される。その後、PPRは持ち株比率を下げたもの、現在も一部の株を保有している。

痛手だったアディダス、ホルストの早逝

 互いにライバルを出し抜こうと考え活動した両社だった。だが、巨大マーケットである米国では、ナイキや英リーボック(現在はアディダスグループ傘下)に出し抜かれてしまう。

 アディダスにとって痛手だったのは1987年4月にホルストが51歳で死去したことだろう。2代目として活躍していたものの、彼がいなくなったことで経営権を巡って家族間で争い、業績が悪化する。

 そして、90年にはフランス人の実業家ベルナール・タピが経営権を得る。彼は企業再建の手腕を持った男だったが、アディダスの競争力は低下しており、その立て直しには時間がかかった。その後94年には、同じくフランス人実業家のロベール・ルイ=ドレフュスが経営権を握ることとなった。

 彼が着手したことは2つ。キャッシュフローの改善と海外市場との契約関係の見直しだ。とくに海外市場では、各国の協力会社と契約条件を変えなければ、投資に対して満足できる報酬を手に入れることはできない状態にあった。

 見直しの一例としては、日本市場におけるデサントとの契約が挙げられる。もともと両社は密接な協力関係にあった。だが、新たな条件で契約を結び直したいとするアディダスと、従来の条件で契約延長を望むデサントとで意見が一致することはなかった。結果、98年にデサントは、ライセンス契約の更新ができず大きく業績を落とすこととなった。

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