オランダチームを揺さぶるヨハン・クライフ問題

 プーマがアディダスを全てにおいてだし抜けたかというと、それもまた異なる。4年後の74年に西ドイツで開催されたW杯では選手とチームの間で両ブランドは揺れた。

 渦中となったのはトータルフットボールの始まりを告げたとされるオランダチームと、そのエースとして活躍したヨハン・クライフだ。彼の代理人は非常に交渉上手で、プーマとの契約を結んだものの契約を解除することをほのめかし、最終的にはスポンサーシップの価格釣り上げに成功したとされている。

 だが、オランダのサッカー協会はアディダスと契約を結んだ。チームはアディダス、エースはプーマという奇妙な契約関係となった。オランダチームはエース不在のままW杯へ出場することも想定された。

 最終的には、アディダスが譲歩する。ヨハン・クライフのみ特例とし、出場を認めた。彼はプーマとの契約を継続していたため、ユニホームの肩から袖口にかけて入っていたアディダスのスリーストライプス(3本線)の1本を外して出場した。

米国市場でブランド価値を落としたプーマ

 プーマにとって80年代は絶頂と絶望が同居した10年となった。米国市場での米ナイキのシェア拡大に対抗して、新たな販路開拓を進めた。米国の安売りチェーン店と大口契約を結び、シューズを格安価格で大量販売した。だが、それが悪手となった。一時的にシェアを伸ばしたものの、ブランド価値は、「高性能なスポーツシューズ」から「廉価で貧乏人の履物」と形容されるほど落ちてしまった。

 86年7月、プーマが独フランクフルトとミュンヘンの証券取引所に上場すると、株価は10倍にまで高騰した。だが、米国市場の見せかけの売り上げ増や、生産量を増やしたことによる赤字在庫が明らかになると株価は急落した。劣後ローンを借りるなどして資金調達を進めたが、金策は難航した。

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