川をはさんで並び立ったアディダスとプーマ

 ルドルフは、兄弟で住んでいたヘルツォーゲンアウラハの家を出て、アウラッハ川をはさんだ対岸に住むことになる。そして1948年、新たな会社を立ち上げる。

 一方、弟のアドルフは同じく48年に、アドルフの愛称「アディ」と名字の「ダスラー」をつなげた「Adidas(アディダス)」を創業する。ルドルフも当初、ルドルフとダスラーの頭文字を組み合わせたルーダという社名を付ける予定だったが、やぼったさを感じたらしく「PUMA(プーマ)」という社名を選んだ。川をはさんで因縁を持った2つの会社が対峙しあうこととなった訳だ。

 当初は、ルドルフ率いるプーマの方が人気は高かった。自身の靴製作技術は弟に劣っていたものの、技術者をダスラー兄弟商会や別の靴製作会社から引き抜き、シューズ製造を開始する。持ち前の営業力で、ドイツのサッカークラブへの売り込みを成功させ、人気を得ていた。

 一方のアディダスはマーケティングを兄に依存していたため、販売面で苦労した。だが、職人気質の彼が製作するシューズには根強いファンも多かった。中でも彼を支えたのは、54年のFIFA(国際サッカー連盟)ワールドカップ(W杯)スイス大会で西ドイツチームを優勝に導くことになるゼップ・ヘルベルガー監督だ。彼の支援により代表チームのシューズを任されることになる。そして優勝は難しいとされたチームが、予想を大きく覆し優勝したことで、国際的にアディダスのシューズの認知や信頼は一気に高まった。

アドルフは経営者として手腕をふるいつつも、職人としての矜持(きょうじ)は失わない人物であった。晩年まで、仕事の合間を縫っては試作シューズを作成、社内の職人たちと議論を重ねたという(写真:picture alliance/アフロ)
アドルフは経営者として手腕をふるいつつも、職人としての矜持(きょうじ)は失わない人物であった。晩年まで、仕事の合間を縫っては試作シューズを作成、社内の職人たちと議論を重ねたという(写真:picture alliance/アフロ)

 川をはさんで火花を散らす2社だったが、ライバルと切磋琢磨(せっさたくま)することにより両社は成長を続けていった。この競争はアドルフの息子ホルスト・ダスラー、ルドフルの息子アーミン・ダスラーという2人に引き継がれていった。

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