4輪自動車への挑戦

 ホンダといえばもちろんオートバイだけではない。宗一郎の夢であった自動車製造は、オートバイと比較して部品点数が多く、一朝一夕では参入できないリスクの高い事業だった。

 61年(昭和36年)5月、通商産業省(現経済産業省)から特定産業振興臨時措置法案(特振法案)の骨子が示される。この法案は、国際競争力強化のため国内産業の選択と集中をするのが狙いだった。法案が施行されれば、自動車製造の実績がないホンダは自動車事業へ新規参入できなくなってしまう。だが、この法案が逆に宗一郎のモチベーションに火を付けた。

 急きょ自動車製造に着手。もともと研究はしていたものの、62年(昭和37年)1月に、車両製造を正式決定して、6月5日に建設中だった鈴鹿サーキットでコンセプトカーの「Hondaスポーツ・S360」を発表した。なんと、着手から半年間もたたずに実走できる試作車両を仕上げたのだ。

 このS360は発売されなかったものの、63年(昭和38年)10月に「Honda S500」が発売される。これで自動車を製造できることを証明し、特振法案と通産省に自社の技術力を見せつけることに成功した。

 その後、特振法案は廃案となる。法案発表前後の通産省と本田宗一郎のやりとりについては、城山三郎の『官僚たちの夏』や『本田宗一郎 夢を力に: 私の履歴書』に記されている。どちらの書籍も面白いので、夏季休暇の折に読む本に悩んでいる人に推薦したい。

次ページ 宗一郎、藤澤の同時退陣