前編「自動車修理業を経てホンダを立ち上げた宗一郎の原点」では自動車への興味をもっていた本田宗一郎が自動車修理業から本田技研工業(ホンダ)を創業するまでの経緯を紹介した。後編では、拡大するオートバイ事業をビジネスとして確立させた藤澤武夫や、モータースポーツや自動車製造への挑戦を紹介する。

名番頭、藤澤武夫の手腕

 優れた開発力とカリスマ性を持った本田宗一郎(以下、宗一郎)だったが、良い製品を生み出す才能はあったものの、それをうまく売り、利益を上げる才覚はいまひとつだった。

 そんな宗一郎を支えたのが、藤澤武夫(以下、藤澤)だ。1910年(明治43年)11月に生まれ、鋼材の小売店に勤務後、独立する。太平洋戦争後、復興には木材ニーズが高まると予測して、山林を購入し製材業を営んだ。藤澤の読み通り木材需要は高まり、文字通り一山当てた人物だ。そんな風を読み事業を取り回すことを得意とする藤澤は、経営人材が不在の本田技研工業(ホンダ)にとって必要不可欠だった。49年(昭和24年)10月、藤澤はホンダの経営に常務取締役として参加することになる。

本田宗一郎(左)と藤澤武夫(右)(写真:Honda)
本田宗一郎(左)と藤澤武夫(右)(写真:Honda)

 藤澤が入社した当時、日本はドッジ・ラインによる緊縮財政政策で大不況となっていた。宗一郎は良いオートバイを造ることにたけていたが会社の経営は苦手だった。いくらお金が出ていき、どれだけの収入が得られるかの読みが甘く、予想以上のお金が会社から出ていくこともあった。

 そのたびに私財を投じ、延命を図ったものの「倒産秒読み」の状態は続いていた。藤澤は入社後、まず、100万円を増資して資本金を倍にし、一息つくことができた。増資額の25%は藤澤が出したものだった。

 何とか首の皮一枚でつながったものの不況下にあって経営は依然として厳しい状況にあった。だが、50年(昭和25年)に入り、状況は一変する。朝鮮戦争によって特需が生まれ、景気が一気にV字回復したのだ。ホンダもその恩恵を受けることになる。

 そんな中、49年(昭和24年)に、エンジンもフレームも自社製の本格的オートバイ「ドリームD型」を発売し、注目を浴びる。街中を走るマルーン色の車体カラーが目立ち、新興企業ながらホンダの名は多くの人々に知られることとなった。そして51年(昭和26年)に「ドリームE型」を発売し、ヒットさせる。

名車カブ誕生

 ホンダとしては一時代を画した「ドリーム」だったが、販売面で最大の成功を収めたのは、52年(昭和27年)に発売した「カブF型」だった。自転車とエンジンの組み合わせた、パタパタの系譜を継ぐモデルだ。シンプルな機構なため、メンテナンスも容易だった。そして藤澤がとった販売手法はこれまでにないものだった。

 当時はオートバイの販売店が全国で300店ほどと少なかったため、店舗の数が格段に多い自転車販売店を販売チャネルとしたのだ。そして全国の約5万軒の店舗にダイレクトメールを送った。

真っ赤なエンジンが特徴的な「カブF型」(写真:Honda)
真っ赤なエンジンが特徴的な「カブF型」(写真:Honda)

 販路の拡大に成功したこともあって、カブF型は大ヒットする。会社は急成長し、55年(昭和30年)にはホンダはオートバイの生産数で世界一となる。さらに58年(昭和33年)には、「スーパーカブC100」を発売する。スーパーカブシリーズはロングセラー商品となり、2017年(平成29年)には累計販売台数が1億台を超えた。

 良いオートバイを造る宗一郎。それをうまく市場に展開し、新たな挑戦を可能とする足場をつくる藤澤。ロングセラー製品の裏側には、造る人と売る人の絶妙なコンビネーションがあった。

 そして、ホンダが大きくなるにつれ、宗一郎はかねて温めていた挑戦へ突き進むこととなる。

次ページ 「マン島TTレース出場宣言」