修理工場からモノづくりへ

 アート商会浜松支店の事業は順調だった。宗一郎の自動車にかける情熱は時に部下への鉄拳制裁も辞さないほど熱く厳しかった。そのため、技術者が夜逃げすることも多かったという。

 1934年(昭和9年)に入り、宗一郎は自動車エンジンに必要不可欠の部品、ピストンリングの試作を始める。修理からモノづくりへの転換だ。だが、試行錯誤するもうまくいかず、学校で学ばなければモノづくりは実現できないとの思いに至る。そして31歳のとき、浜松高等工業学校(現静岡大学工学部の母体)に入学し、製造技術の体系や科学の基礎を学んだ。

 そうした努力が実を結び、目標だったピストンリングの試作に成功する。そして1939年(昭和14年)、知人の後援を受けてすでに設立していた東海精機重工業(現東海精機)に社長として入社し、量産化を進めることになる。アート商会を従業員だった川島末男に譲り渡した。その後、製品の品質向上という課題に直面しつつも、東海精機重工業の事業は拡大していく。

 だが、太平洋戦争が始まり、1943年(昭和18年)には軍需省の管轄下に置かれる。さらに1945年(昭和20年)の年初に起きた三河地震で工場が全壊する。空襲による被害もあり、宗一郎は東海精機重工業を他社に譲り渡し、戦後、新たなビジネスを始める。目をつけたのは父の事業であった自転車だ。

 宗一郎はある日、タクシー会社を営んでいた友人の犬飼兼三郎氏の家を訪問する。そこで犬飼氏が、たまたま知人から預かっていた旧陸軍の6号無線機用の発電用エンジンと出合う。そしてこれを自転車に取り付け、簡易オートバイに改造するという発想に至った。こうして1946年(昭和21年)に製造したのが通称「バタバタ」だ。簡易的な機構ながら、速力が出るため多くの人に好まれ、生産する先から売れていったという。

旧陸軍の6号無線機の発電用エンジンを取り付けた原動機付き自転車。「バタバタ」の愛称で親しまれた。バイクをゼロから製造するほどの力がなかったが故の、発想力の勝利だった(写真:Honda)
旧陸軍の6号無線機の発電用エンジンを取り付けた原動機付き自転車。「バタバタ」の愛称で親しまれた。バイクをゼロから製造するほどの力がなかったが故の、発想力の勝利だった(写真:Honda)

 1947年(昭和22年)、宗一郎はバタバタを販売した資金をもとに、自社でフルスクラッチのエンジン「Honda A型」を開発する。初めてホンダの名で製品化した自転車用補助エンジンだ。宗一郎が望んでいたモノづくりを実現し、エンジンは人気を博することになる。そして、翌1948年(昭和23年)、宗一郎は本田技研工業を設立する。

自社製品第1号として市販された「Honda A型」。無線機用エンジンと比較するとパワーがあり、最高時速は時速45kmだった。1951年まで生産が続けられた(写真:Honda)
自社製品第1号として市販された「Honda A型」。無線機用エンジンと比較するとパワーがあり、最高時速は時速45kmだった。1951年まで生産が続けられた(写真:Honda)

 だが、製品に対する高いニーズとは裏腹に本田技研工業のキャッシュフローは悪化していく。売れているのに、なぜ苦境に立たされたのか。後編では、その状況に陥った理由や救世主の登場、その後の本田技研工業について紹介していく。

(文=今井 健)

この記事はシリーズ「社史に学ぶ!あの企業のなぜ」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。