榊原郁三と自動車修理業との出合い

 中学校(現在の高校)への進学か、もしくは就職か。その岐路に立った時、宗一郎は手に職をつける就職の道を選んだ。就職先は、東京市本郷区湯島(東京都文京区湯島)の自動車修理工場、アート商会だった。1922年(大正11年)4月に宗一郎は自動車修理見習いとなる。ただ、期待する自動車の仕事にはすぐには関われず、任されたのは子守と掃除という雑務だった。

 この時のアート商会の社長は榊原郁三(以下、榊原)という人物で、人を見る目にたけていた。彼は宗一郎の人柄を見抜き、雑用をやらせて忍耐力を試しつつ、鍛えていったとされている。そして雑用から解放され、自動車に触れることを許された宗一郎は貪欲に車の整備を学んでいった。当時は、現在のように自動車修理で使えるマニュアルなど存在しない。輸入車のため、部品の情報も少なく、自動車の機構や部品の役割などについて高い観察眼が求められた。榊原は時に厳しく、困った時には優しく教えサポートした。宗一郎にとって経営者の模範となる人物だった。

 こんなエピソードが残っている。1924年(大正13年)、アート商会は盛岡の消防車修理業務を請け負い、その一切を宗一郎に任せた。派遣が決まったとき宗一郎は自分にできるか心配になり、先輩を付けてほしいと願ったが、榊原は宗一郎の成長のため突き放して1人で向かわせる。盛岡では若造が来たと冷遇されたものの、見事1人で消防車のエンジンの故障箇所を突き止め修理を完遂する。当初の冷遇とは打って変わって喜ばれた。

 1928年(昭和3年)、宗一郎は榊原からのれん分けを許され、アート商会浜松支店の出店を許される。

浜松で創業したアート商会浜松支店。左端のレーシングカー・ハママツ号の横でサングラスをして立っているのが宗一郎だ(写真:Honda)
浜松で創業したアート商会浜松支店。左端のレーシングカー・ハママツ号の横でサングラスをして立っているのが宗一郎だ(写真:Honda)

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