経営者が尊敬する経営者とは誰か。本連載で紹介した松下幸之助氏(「不況の時こそ松下幸之助を見習え パナソニック創業者の胆力」)や安藤百福氏(日清食品・安藤百福 「逆風でも事業に向き合ったシリアルアントレプレナー」)などが挙げられるはずだ。そして、本田宗一郎氏もまたそうした経営者の1人だろう。

本田宗一郎(1906年〜1991年)(写真:Honda)
本田宗一郎(1906年〜1991年)(写真:Honda)

 尊敬と畏怖を集める本田技研工業(ホンダ)の創業者、本田宗一郎。前編では、ホンダのオートバイ事業の市販製品第1号「Honda A型」が登場するまでの歴史を紹介する。

本田宗一郎、誕生

 1906年(明治39年)11月7日、静岡県磐田郡光明村(現在の浜松市)に本田宗一郎(以下、宗一郎)は生まれた。父の本田儀平は腕利きの鍛冶職人だったが、その後、自転車販売店を始めた。当時は農村部にも自転車が普及し始めた頃だ。自転車の販売やメンテナンス、修理した中古品の販売などをしていた。

 ある日、のどかな光明村の道を1台の車が走った。今では自動車が道を走るのを見たことがない人などいない。だが、当時、自動車は都市部でなければ見られない物珍しい乗り物だった。8歳の宗一郎は、その見慣れない乗り物に大変興味を持ったという。その時の自動車のオイルの臭いが今でも忘れられないと、後年も宗一郎は度々語っている。宗一郎にとって自動車との出合いは人生を変えるきっかけとなった。

 乗り物との出会いで宗一郎の記憶に深く刻まれている出来事はもう1つある。飛行機との出合いだ。1917年(大正6年)、宗一郎は浜松市に飛行機がやってくることを知る。

 日本各地で曲芸飛行の興行をしていた米国人のアート・スミスという飛行機乗りがやってくるのだ。それを見にいくことを父の本田儀平に頼み込むも許されず、仕方なく夜中に家を抜け出して浜松まで向かう。家にある自転車にまたがったものの、宗一郎にはサドルは高過ぎ、一晩中立ちこぎで浜松まで向かった。

 だがお金が足らず会場に入れず、木によじ登って飛行機の飛ぶさまを見ることになる。鉄の塊が空を優雅に飛ぶ様子は、いつかは飛行機に乗ってみたい、つくってみたいという思いを彼の心に刻み込むことになる。その後、宗一郎は、父の自転車修理を手伝いながらモノづくりの道を歩み始める。

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