松下幸之助という人物を一言で表すのは難しい。起業の模範的人物であり、日本の高度経済成長を支えた人物である。自著も多く、多くの経営者がうなる名言を残し、実直に働き世界規模の会社を育てた。それだけでなく、内閣総理大臣を輩出する私塾も作るなど、将来を見据えた活動も幅広く行う人物である。そんな立身出世の人として評価されることもあれば、辛い幼少期からのし上がった胆力のある人とも評される。活躍した時代は昭和だが、令和においても多大な影響を持っている。今回は幸之助の半生をひもとき、パナソニックが成長するまでを解説していきたい。

松下電器産業(現パナソニック)の創業者・松下幸之助氏

始まりはでっち奉公から

 1894年和歌山県和佐村に生まれた幸之助。生まれは農村だが、父は地主だったため裕福な生活をしていた。しかし、幸之助が4歳の時に父の事業失敗により一家は困窮することに。幸之助少年は、あと4カ月で小学校を卒業という時にでっち奉公へ出され、火鉢屋や自転車屋で働くことになる。

 当時のでっち奉公というのは、衣食住を提供される代わりに四六時中働かなければいけない、そんな仕事をイメージしてほしい。つらい仕事ながらも、幸之助少年はとっぴな発想力で色々なことに挑戦している。

 良く話に出るのは、初めての商いとなったたばこの話だろう。小間使いということで、お客さんからたばこを買ってこいと手伝いを依頼されることも多かった。当時のたばこは20個セットで購入すると1個おまけが付いてくる。お客さんからいつ依頼されてもいいように先んじて大量購入し、都度販売するといったことをしていた。先行投資により「おまけの利ざや」と「お使いの時間短縮」を実現。給与とたばこ購入で2重に利益を得た。頭の回る幸之助少年は客受けはよかったものの、先輩達から苦言を呈されることに。最終的に、お使いビジネスはやめることになった。

 幸之助少年が幸之助青年になろうとしたとき、人生を変える転機が訪れた。それは、電車との出会い。市内を横断する大阪市電を見て「これからは電気の時代が来る」と確信した幸之助。当時は身近でなかった電気こそ、これからの時代を切り開くと感じたと後述している。奉公先の自転車屋では頭角を現し信頼も厚かったが、店を飛び出し新たな職に就くことを決めた。

大阪・門真のパナソニック本社(写真:つのだよしお/アフロ)

 その思いつき通り、1910年に15歳で大阪電灯に内線見習工として就職した幸之助。会社も右肩上がりの成長を続け、彼の読み通りの電気の時代がやってきた。また、就職後の勤務実績も良く、社内では最年少の16歳で内線工への昇格。その後20歳の若さで、大阪にあった映画館(芦辺劇場)の工事の屋外電飾工事の総責任者を任される程になった。現場では、寝ずに働く幸之助青年を多くの人が信頼したと言う。

 ただ、そんな働き方は信頼を集めた半面、彼を起業家へと進めることになる事件が起きる。

続きを読む 2/2 松下幸之助が起業した2つの理由

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