日本電気(NEC)の創業者の岩垂邦彦(いわだれ くにひこ)。幕末に生まれ、父の敵討ちを決めたものの果たせず、後に故郷で勉学に勤しみ頭角を現し、渡米。トーマス・エジソンの下で学んだが、「電流戦争」と呼ばれる送電方式の規格争いの中、エジソンとたもとを分かつことになる波乱の半生を紹介した(「NEC創業者、岩垂邦彦がエジソンvsテスラの『電流戦争』で下した決断」)。今回はその後の足跡と日本電気設立の経緯を追っていく。

交流送電か直流送電かの争いとなった「電流戦争」は、1890年(明治23年)に入り決着がつく。ナイアガラの滝を利用した発電で、テスラの交流送電技術を使ったウェスティングハウス・エレクトリック&マニュファクチャリング・カンパニーのシステムが実績を上げたのだ。その後、エジソン率いる、エジソン・ゼネラル・エレクトリックは1892年(明治25年)、交流送電技術を持つトムソン・ヒューストンと合併し、ゼネラル・エレクトリック(GE)が誕生。同社は交流送電システムへ方向転換することになる。
交流送電こそが日本のためになると判断したことで、岩垂邦彦(以下、岩垂)は直流送電のエジソン陣営から一時破門状態になっていた。だが、交流システムが主流になる中、GEも交流送電システムを採用したため、そのわだかまりは解けた。1894年(明治27年)、GEは岩垂が設立した岩垂電気商店に日本での販売代理権を与えることになる。
翌1895年(明治28年)、岩垂電気商店は米ウエスタン・エレクトリック(WE)の販売代理店業を始める。WEは米国で電気機器メーカーとして、音響機器、照明機器、タイプライターや警報器などを製造していた。岩垂は日本でも送電網が整備されれば、電気機器のニーズが高まると考えたのだろう。
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