江戸と明治の境に育つ

発明王トーマス・エジソンの下で働き、後にNECの創業者となった岩垂邦彦(いわだれくにひこ)。松下幸之助や安藤百福と比較すると起業家としての知名度は劣るかもしれない。だが、技術者としての生きざまもさることながら、国家に忠を尽くした志や経営力は比類なきものがあった。彼が興したNECに至るまでの半生をひもといていく。
岩垂邦彦は1857年(安政4年)、豊前国豊津(現在の福岡県京都郡みやこ町)に生まれる。実父は小倉藩士の喜田村修蔵。岩垂家から喜田村家の養子に入った人物だ。だが、実家の岩垂家に跡継ぎが生まれず、修蔵の次男だった邦彦が養子として岩垂家に入り、家督を継ぐことになる。それが岩垂邦彦(以下、岩垂)だ。
だが、1868年(明治元年)、岩垂が11歳のとき事件が起こる。実父の喜田村修蔵は、第2次長州征伐のときに小倉藩で諸藩との外交交渉を担い、維新後は藩を代表して、明治政府の公儀所の公儀人となっていた。だが、彼の活動をよく思わない藩内の反対派によって東京で暗殺されてしまう。
岩垂は父の敵討ちをすると決め、兄と共に東京に赴く。当時は敵討禁止令が発布される前であり、敵討ちを当然とする文化的背景もあった。だが、実父の仇(かたき)とはいえ、岩垂は元服前の少年だ。また、岩垂家を継ぐことになっていたため、敵討ちは必須ではなかったはず。だが、岩垂は命を落とすことを覚悟の上で東京へ向かったのだ。
結果的に、敵討ちは実現しなかったという。その理由については、明らかにはなっていないが、岩垂は失意のうちに小倉に帰郷することになる。
その後、岩垂は学問に打ち込んだ。1870年(明治3年)には小倉藩が設立した育徳館(現在の福岡県立育徳館高等学校)の分校の洋学校に入学。洋学校では、外国人講師から英語で授業を受け、そこで頭角を現す。卒業後、1875年(明治8)年に上京し、翌年に工部省工学寮(後の東京大学工学部)に官費入学する。
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