ソニーシティことソニー本社ビルは2006年に完成。今年の10月に15周年を迎える(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)
ソニーシティことソニー本社ビルは2006年に完成。今年の10月に15周年を迎える(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

ソニーが志した「現地化」

 60年には、盛田が主導して他の日系電機メーカーに先駆けて米国ニューヨークに現地法人を立ち上げた。しかし、当時のソニーは米国向けの商品ラインアップも多くなく、十分な販路も開拓できていなかった。だが、盛田は現地法人が海外展開には必須であると考えていた。

 販売代理店契約ではなく、自社で販売会社を立ち上げ、独自の販路確保とアフターサービスクオリティーの維持が重要との盛田の思いがあってのことだ。わずか10坪程度のオフィスからスタート。「ソニー・アメリカ」は人材の確保や育成、販路の開拓などの困難はありつつも、徐々に軌道に乗り始めた。62年にはニューヨークの5番街にショールームを開設し、当時最先端の電化製品であったマイクロテレビを発売。

 ショールームでは発売後すぐに完売し、全米中でブームとなった。こうした成功体験を再現するため、英国やフランス、ドイツといった欧州各国やアジアに販売現地法人を次々に立ち上げていった。

 次に盛田が手がけたのは「経営と生産の現地化」だ。盛田は、海外現地法人を運営する上で、ローカル採用の人間を経営のトップに据える必要性を信じていた。日本からの駐在員を経営者として据えるのではなく、現地にネットワークを持ち、現地の経営文化を熟知している「できる人材」を現地で採用することにこだわった。そして、生産の現地化にもいち早く取り組んでいった。日本で作って海外に輸出していては、円安や円高といった為替市場に左右される。生産を現地化することで安定的な供給を図り、流通と生産コストの最適化を目指したのだ。

 こうした盛田の思いを体現したのが、88年にソニーから打ち出された「グローバル・ローカライゼーション」というスローガンだ。こうした盛田の経営理念は今や経営戦略のスタンダードとなっている。

 日本基準ではなく、国際基準で経営を考える盛田の手法は随所にあらわれている。盛田は早くから年功序列や終身雇用といったいわゆる日本企業的な経営文化を否定した。 年功序列や終身雇用は過去のものになりつつあるが、盛田はそうした日本企業的な経営文化を早くから批判していた。他社との違いや製品の違いを追求し、競争を意識することで次々に革新的な商品を世に出し、世界はその独創性に驚嘆した。

 今でこそ、盛田の経営手法は当たり前に見えるかもしれない。しかしながら、戦後の荒廃した東京から世界へと羽ばたくべく、世界基準の経営手法を取り入れ、考案し実践していった。彼こそが日本におけるグローバル企業経営の先駆者であろう。来るべき変化の時代を乗り切るための方策として、日本企業的な経営文化からの脱却を目指し、実現した。

 今では、企業のグローバル化は当たり前だ。当たり前となった現実から一歩を踏み出し、先駆者になる勇気こそが変化の激しい今の時代に必要とされているのかもしれない。

=文中、敬称略
(文/宇佐美フィオナ)

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