「ソニー」ブランドにこだわり抜く

 東京通信工業の常務となった盛田は、やがて最初の挫折を味わうことになる。当時最新機器であったテープレコーダーを売り込もうとしたときのことだ。社運をかけて開発した、日本初のテープレコーダーの販売を盛田は担当。「画期的で便利な商品」との事前評価を受けて、必ず飛ぶように売れると確信したが実際は残酷で、全く売れなかった。「会社が良いものと思ったとしても、世間はその価値に気づかない」、そう気づいた盛田は商品そのものの刷新を決意する。一般家庭に普及させるために、大型であった本体の小型化を企図した。デザインにもこだわり、外部デザイナーを登用した。

 次は販売先だ。視聴覚教育に力を入れていた学校などの教育施設に貸し出すことを決めた。テープレコーダーの開発費がかさみ、経営は苦しかったが数十台も無償で貸し出した。そして「録音教育研究所」を立ち上げ、全国の教育機関で視聴覚教育の重要性を説いて回った。

 こうした努力はやがて実を結ぶことになる。テープレコーダーの持つ教育との親和性や便利さに気づいた教員たちの支持を受け、テープレコーダーを導入する学校が増加した。ようやくマーケットを開拓したのだ。この時の経験から盛田は、売り手ではなく買い手の視点に立ち、商品の価値に気づかせることができなければマーケットは開拓できないという教訓を学んだ。

 その後も盛田は自らの経営手腕を遺憾なく発揮する。バラックから立ち上がったベンチャー企業を「世界のソニー」に育て上げた盛田。彼が経営者として重視したのは、ソニー(東京通信工業)の「ブランド化」と「グローバル化」であった。

 世界で通用する会社に育て上げるため、早くからブランド力の重要性に気づいていた盛田は、発音のしやすさを重視し、55年には「ソニー(SONY)」というブランド名を考案。自社製品にソニーのブランド名を付けて売り始めた。58年にはソニーを正式な社名にした。

 当初、ソニーのブランド名を社名とすることに対して反対の声もあった。創業以来約10年で、ようやく根付き始めた「東京通信工業」の社名を捨てることになるからだ。だが、盛田は「世界に通用する会社になるため」と譲らなかった。盛田が社名変更にこだわったのには理由がある。

 53年に盛田はトランジスタの特許契約を米国のウエスタン・エレクトリック社と行うために米国・ヨーロッパ出張に赴いた。3カ月もの長期にわたった出張の結果、外国人にも発音しやすくわかりやすい社名がいかに重要であるかを悟ったという。盛田は、帰国後すぐに今後の海外展開を見据えて、社名変更を井深に直訴した。

 「ソニー」に社名を変更した後は、ブランドの発展と保護に尽力した。他の企業に利用されないように、65年までに170もの国でソニーの名前を商標登録した。商標を侵害する行為があればすかさず提訴に踏み切った。海外から大量のOEM(相手先ブランドによる生産)契約の話が舞い込んだときも、ソニーの名前で商品を販売できないとわかると盛田は契約を断った。それほどソニーの名前にこだわったのだ。

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