東芝の創業者の一人である田中久重。時代を同じくしてものづくりの黎明期(れいめいき)を支えた技術者が存在する。その技術者は、藤岡市助。彼は電灯に人生を懸け、「東芝」と「東京電力」の源流となる会社の創業に携わった。技術立国ニッポンを支えた技術者の人生を振り返ることで、経営の混乱が続く東芝が進むべき道についての示唆が得られるかもしれない。東芝社史前編「75歳で東芝の前身起業 老当益壮な技術者に学ぶ定年延長時代の挑戦」に続いてお届けする。

エジソンの電球発明からたった10年で国産化を成功させた男

 東芝の社史において藤岡市助は忘れてはいけない存在だ。彼は、1857年に現在の山口県岩国市にあたる周防国岩国藩に誕生した。8歳の時に藩校に入学し、その後岩国英国語学所にて英語教育を受けた。18歳になる時には、旧岩国藩主である吉川経健から奨学金をもらい、東京大学工学部の前身となる工学寮電信科に入学した。

 その工学寮で、藤岡は良き師たちと出会う。中でもウィリアム・エアトン教授は藤岡に対し、教科書の暗記ではなく実験を中心とした教育を施した。教授の熱心な教育が実を結び技術者として立志したのが1878年のことであった。そんなエアトン教授の指導の下、藤岡は工部大学校(工学寮から改称)の講堂を、フランスから輸入したアーク灯(放電灯)で照らしたと記録が残されている。このアーク灯こそが、日本で初めてともった電灯だ。そんなプロジェクトを成功させた藤岡の気持ちは推し量れないが、藤岡のその後の生き方を見るに電灯に魅了されたのは間違いないだろう。

藤岡市助(画像提供:東芝未来科学館)
藤岡市助(画像提供:東芝未来科学館)

エジソンとの出会いがその後の日本と東芝をつくった

 1881年に工部大学校を首席で卒業した藤岡は、母校である工部大学校にて教べんをとることになる。そして1884年には、わずか27歳で同学校の教授に就任。その後の彼のキャリアを大きく変えたのは訪米使節に選抜されたことだろう。電灯に魅せられた藤岡は、ニューヨークやボストン、フィラデルフィアにて産業の最先端技術を目の当たりにする。

 ここでも藤岡の強い興味を引いたのは「白熱灯」であった。米国では、白熱電球普及の立役者であるエジソンが作成した白熱電球を譲り受けるとともに、日本で電気技術を広めるうえでの助言を受けたとされる。こうした米国での経験が藤岡の人生を大きく変えることとなった。新たな技術を日本に紹介、普及させることを強く願うようになったのだ。

 もう一人の東芝をけん引した2代目田中久重との出会いはちょうどこの頃であった。時代の先導役となった技術者同士、心が通じる所があったのだろう。日本での電球の普及と発展の可能性について話し合ったとされる。しかし、彼らが興した会社が合併し、日本を代表する総合電機メーカーへと発展するとは、この時彼らは知る由もない。

続きを読む 2/2 東芝の社史は天井にともる

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