こうした最新技術を基に和時計と小型プラネタリウムを組み合わせて、「万年時計」や「天体時計」を製作した。現在も多くの作品が残されており、中でも国立科学博物館所蔵で「愛・地球博」で作動するレプリカが展示された「万年時計」や、銀座のセイコーミュージアムで確認できる「須弥山儀」などは、文化財としての価値も高い。

「万年自鳴鐘(万年時計)」(国立科学博物館展示、東芝所有)
「万年自鳴鐘(万年時計)」(国立科学博物館展示、東芝所有)

 このように40年近くの歳月を費やし、からくり人形、灯取り、和時計へと技術開発を行っていた久重だが、通常であれば技術者としてキャリアは最高潮を迎えたかに思える。しかし、彼の最新技術への興味は50歳を迎えても衰えることなく、新たな領域の技術開発に乗り出すのであった。

自らの変化をやめない起業家・田中久重

 久重が50代を迎えたのは、ペリー率いる米国海軍船の来航により激動の時代が始まったタイミングと重なる。黒船来航(1853年)を起因として、江戸幕府や各藩による防衛力強化が意識された頃であった。同時に、鎖国が終了することによって、これまで少数の国によってもたらされていた西欧の最新技術が一気に流入することになり、新たな発明を志す土壌としては最良なものになったと言える。

 こうした時期に喜々として新技術を取り入れ続けた久重。江戸時代であればご隠居にもなり得る齢55歳で、かつての同胞である佐野常民の誘いにより、佐賀藩の精錬方(せいれんかた、理化学研究所)に参加、現在の佐賀県に住居を構えることになる。精錬方では、蒸気機関の製作にいそしむ中、故郷でもある久留米でも仕事を請け負うようになり、68歳までに蒸気機関車の模型や蒸気船、アームストロング砲を開発・完成させた。

カノン砲雛形(画像提供:東芝未来科学館)
カノン砲雛形(画像提供:東芝未来科学館)

 精錬方での勤務を終えた久重。それでも技術への興味を失うことなく、東京に転居。翌年機械の製造を請け負う店舗と工場を齢75歳で開業した。当時店に掲げられていた看板には、「万般の機械考案の依頼に応ず」としており、どんな機械でも久重の興味の赴くままに請け負ったとされている。テクノロジーによって課題解決を行う、そんなテックカンパニーは彼自身の興味や行動力によって誕生したのだ。

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