田中久重と聞いてすぐに東芝と結びつけることができる人はどれほどいるだろうか。彼は、からくり人形や万年時計といった技術力の高い工芸作家として高い評価を受けていた。別名「からくり儀右衛門」と呼ばれており、江戸時代後期に活躍した。そんな彼は、自らの高い技術力に胡坐(あぐら)をかくことなく、その後も蒸気船や大砲の製作にいそしむ。技術力を発揮した活躍は、単なる作家活動の領域だけにとどまらなかった。

創業の地・銀座の店舗兼工場、明治28年ごろ(画像提供:東芝未来科学館)

 東芝の祖、久重のルーツは「からくり人形」にあった。1799年(寛政11年)に現在の福岡県久留米市に生を受けた。久重は幼少期よりからくり人形に魅せられ、数え年で9歳にして「開かずの硯箱(すずりばこ)」というからくり機構を持つ箱を製作し、早くから高い才能を発揮していた。

 久重少年は、その後もからくり人形の製作に没頭。20代になる頃には「弓曳童子(ゆみひきどうじ)」や「童子盃台」を製作した。そして自らが製作したからくり人形を引き連れ、大阪や京都を中心に興行を行っていたといわれている。そして30代になる頃までには、すでに久重はからくり人形の製作で名声を得ていたものの、36 歳のときに現在の大阪市に移住。「燭台(しょくだい)」や「灯取り」の製作に乗り出し、同年に携帯ろうそく立てである「懐中燭台」やオランダから渡来した空気銃技術を応用した機械式行灯(あんどん)である「無尽灯」を発明した。

 それまで、からくり人形という人々の娯楽に通じる作品の製作に注力していた久重だったが、人形製作で培った技術力を応用。工芸から人々の生活の質向上に資する発明品の開発にシフトしたのだ。

 しかし、彼の人生の転機はその先にあった。それは、かの有名な大塩平八郎の乱(1837年)だった。群衆が豪商や米問屋を襲った結果、自宅と財産を失うことに。結果、彼は住まいを京都に移し新たな発明品の開発に没頭した。

 中でも彼の製作したもので評価されているのは「万年時計(万年自鳴鐘)」であろう。蘭学を学ぶことで、当時最先端の技術と出会い、開発・製作に乗り出した。また、同時に天文暦学の勉強も進め、学んだ知識を生かして小型プラネタリウムの開発・製作にも注力した。

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