前編「自社辞任からトヨタの礎を築いた豊田佐吉の紆余曲折人生」ではトヨタ自動車がいかにして、自動車事業をスタートさせたのかを紹介した。後編では、第2次世界大戦後、倒産の危機をいかに乗り越えたのか、そして純国産自動車を誕生させ、海外進出していった歴史について触れていく。

戦争直後の混乱と純国産車への夢

 第2次世界大戦によって、ヒト・モノ・カネの多くを失った日本。復興に必要な資金は、政府系金融機関「復興金融金庫」が発行した復興債で調達された。その資金を使って、石炭、鉄鋼、電力、化学肥料など基幹産業に集中的に融資した。だが、復興債を引き受けた日本銀行が紙幣を大量に発行したため、日本は大規模なインフレーションにあえぐことになる。日本円の価値は大幅に下落し、経済は荒波にもまれた。

 GHQ(連合国軍総司令部)はインフレ抑制のため1948年(昭和23年)12月、「経済安定9原則」を発令。49年(昭和24年)2月には、米デトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジがGHQの経済顧問として来日、赤字財政の立て直しを図った。

 ドッジは、日本円の貨幣供給量の減少を目的とした「ドッジ・ライン」を実施する。結果として、インフレの波はおさまり物価も安定することになる。だが、国から供給される資金が減少したことで、企業の資金繰りは悪化し、「ドッジ不況」が起きてしまう。製造業をはじめとする多くの業種で大規模な人員削減や企業倒産が相次ぐこととなった。

 戦前の37年(昭和12年)に豊田自動織機製作所から分離独立したトヨタ自動車工業(トヨタ自工)もこの波に襲われ資金繰りが悪化。49年(昭和24年)末には、2億円近くの資金を融通できなければ倒産する危機を迎えることになった。

 社長の豊田喜一郎(以下、喜一郎)はトヨタ自工を存続させるため、2つの交渉を進めた。人件費を削減するための賃下げ交渉と、金融機関への融資交渉だ。前者は、人員整理をしない代わりに、1割の賃金引き下げを労働組合に提案。融資については、厳しい状況の中、24行からなる銀行団から決済資金として1億8820万円の融資を受けることになんとか成功する。首の皮一枚を残して倒産の危機を免れた形だった。

 だが、融資で一息ついたものの、50年(昭和25年)になっても、業績は改善しない。このため融資をした銀行団に対し再建案を提示する必要があった。銀行団からは人員整理を強く求められていた。労働組合とは人員整理をしないと約束していたのに、それを反故(ほご)にしなければならない。喜一郎は逡巡(しゅんじゅん)したが、最終的に人員整理を進めることを決める。

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