大企業の社史を読み、その誕生と成長の過程をたどると、「発明」のプロフェッショナルによるモノづくりか、「商」のプロフェッショナルによるビジネスの立ち上げかに分類できる。日本一の時価総額を誇るトヨタ自動車。その源流をつくった豊田佐吉(以下、佐吉)は前者の男だった。モータリゼーションの波に乗り、大きく企業として成長したトヨタ自動車はこの男の自動織機の発明から始まった。日経ビジネス編集部の取材により、豊田佐吉と息子の豊田喜一郎の半生を追う。

繊維機械に未来を見いだす

 愛知県の名鉄栄生駅近くにトヨタ産業技術記念館(名古屋市)という赤れんがの建物がある。佐吉が建設した試験工場を保存・活用した記念館だ。1994年(平成6年)に開館したこの施設は、近代産業の歴史を楽しめる。展示物の主役はトヨタ自動車の製品だと思われがちだが、巨大な繊維機械が100台近く並ぶエリアもあり、それに圧倒される人も多い。トヨタ自動車の始まりが「繊維機械」だった事実をひしひしと感じられる。

トヨタ産業技術記念館の繊維機械館。約3500平方メートルの館内には約100台の機械が置かれ、技術の進歩を知ることができる(画像:トヨタ産業技術記念館)
トヨタ産業技術記念館の繊維機械館。約3500平方メートルの館内には約100台の機械が置かれ、技術の進歩を知ることができる(画像:トヨタ産業技術記念館)

 佐吉は、1867年(慶応3年)、遠江国敷知郡山口村(現・静岡県湖西市)に生まれた。実家は、大工をなりわいとしており、佐吉は父の仕事を手伝うことで手に職をつけ始める。1885年(明治18年)、18歳になった佐吉は「専売特許条例」の発布を知る。この法律により、発明した技術は知的財産として保護されるようになった。また発明が使用されることで財をなすことができ、やがて企業や国が豊かになるという点に感銘を受けたという。佐吉は生涯をかけて発明家になると心に決め、大工の技術を用いて発明に明け暮れることになる。

 転機となったのは1890年(明治23年)、東京・上野公園で開催された第3回内国勧業博覧会だ。国内産業と輸出商品の育成を目的とした博覧会として政府が主導した展示会で、国内の芸術品や産業機械が展示された。

 佐吉は、第1回内国勧業博覧会で、最優秀賞を受賞したこともある発明家、臥雲辰致(がうんときむね)の「ガラ紡機」や動力機械などの展示にくぎづけとなる。会期中、佐吉は15日間通い詰め、展示品から様々な機構を学び取った。そして同年、従来品よりも生産効率を高めた「豊田式木製人力織機」を完成させ、翌年には特許を取得した。

トヨタ産業技術記念館の繊維機械館に展示されている豊田式木製人力織機(複製)(画像:トヨタ産業技術記念館)
トヨタ産業技術記念館の繊維機械館に展示されている豊田式木製人力織機(複製)(画像:トヨタ産業技術記念館)

 発明に注力したのは単に特許の取得だけが目的ではない。発明によってより織布の生産性を高めたいという強い意欲があった。それを実現するため、人力ではなく動力を用いた自動織機の開発に着手した。だが、動力機について技術的なバックグラウンドがあったわけではなく、熱意と好奇心だけで開発するのは困難を極めた。それでもなりふり構わず動力技術の研究に没頭。佐吉は開発のため家を空けることも多く、家は次第に困窮する。最初の妻のたみは息子の豊田喜一郎(以下、喜一郎)を残し彼の元を離れることとなった。

 そんな犠牲のもと、佐吉は1896年(明治29年)に日本初の動力式の「豊田式汽力織機」を完成させる。海外では動力式の織機は作られていたものの、輸入品に比べて安価に購入できることもあり一大ヒット商品となった。また、1906年(明治39年)に発売することになる「39年式織機」や、円運動を用いた画期的な「環状織機」など、効率性の追求や大型織機の開発、新技術の研究などに多くの時間を注いでいった。

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