富士通誕生の経緯

 包括的かつ多角化した古河財閥。規模は拡大し、第2次世界大戦の敗戦後にはGHQ(連合国軍総司令部)から目をつけられることとなる。独占的に日本の産業を牛耳ったとされる企業群は、1946年(昭和21年)、GHQから財閥解体の対象となった。第1次指定では三井本社、三菱本社、住友本社、安田保善社の4大財閥と、富士産業(旧・中島飛行機)が指定される。その後、第2次指定で古河財閥が指定されることに。古河財閥のトップだった、古河鉱業とその関連企業が分割される結果となった。

 富士電機から分離し、誕生した富士通信機製造(現、富士通)は戦後、国内向け電話機や電算機などに参入した。

通称黒電話と呼ばれる4号電話機や600形電話機(上)は、富士通が製造に携わっている。1967年に社名を変更し富士通となった。(写真:PIXTA)
通称黒電話と呼ばれる4号電話機や600形電話機(上)は、富士通が製造に携わっている。1967年に社名を変更し富士通となった。(写真:PIXTA)

 1980年代に入ると企業向けコンピューターや「FM」や「FMV」の型番で知られるパーソナルコンピューター事業で急成長。Windows95やインターネットの本格的普及も追い風となった。その起点として1960年代に活躍した岡田完二郎の存在には触れておかなければならないだろう。

 岡田は、もともと古河財閥出身の経営者。1945年(昭和20年)、古河家と血縁関係がないにもかかわらず、古河財閥の中核企業である古河鉱業(現、古河機械金属)の代表取締役に就任するも、宇部興産に転じざるを得ない状況に追い込まれる。その後、1959年(昭和34年)、68歳のときに古河グループである富士通信機製造の社長に就任するという数奇な運命をたどることになる。

 黒電話をはじめとした通信機器の製造からコンピューター事業へ転換を決めたのも岡田によるところが大きい。メインフレームといわれる超大型の計算機を国産化し、企業に向けて販売。天才エンジニア池田敏雄の存在もあり、それまでは米IBMなどから輸入するしかなかった中、日本のコンピュータービジネスを大きく変化させた。

 その後の富士通は、81年にFM-8を発売したのを皮切りに個人向けパソコンの分野で大きく発展。現在は、システム構築やDX(デジタルトランスフォーメーション)支援など企業のITベンダーとしての強みを持つ企業へと変化した。

 古河グループ企業の源流を追ってみると、当初は金融や投資という第3次産業から始まっている。その後、鉱山業をベースに精錬事業や電気機器製造などの第2次産業に進出。分社を経て生まれた富士通は電話やコンピューター、パソコンの製造からだんだんと、システム産業として第3次産業に回帰している。古河が事業を立ち上げてから1世紀強の時間の中で、ビジネスが段階的に変容して戻っていく様は興味深い。

 大企業としてのポジションを維持するには、常に変化変容を求められる。現状維持でマーケットを守ることも大切だが、それと同じぐらい自己否定による新たな挑戦も必要だということではないだろうか。

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