古河財閥を襲った危機と、多角化

 足尾銅山だけでなく、複数の銅山を復活させていった古河。足尾鉱毒問題を引き起こしたものの、古河の手がける鉱山事業は加速度的に成長し、別名「銅山王」と呼ばれるようになった。

 1905年(明治38年)には古河鉱業会社(現在の古河機械金属)となり、全国で大鉱脈を次々と発見。採掘機械の輸入による効率化を進める中、鉱業を軸とした事業は第1次世界大戦による日本の好景気などもあって成長を続ける。その収益を元に経営の多角化に着手、かつての小野組を超えるような財閥にまで成り上がった。

 だが、鉱毒事件の発生やそれによる世論のバッシングにより、古河の晩年は成功者と言えるほど幸せではなかっただろう。古河の死の2年前、1901年(明治34年)に起きた妻の為子の死は想定外だったはずだ。死因は、入水自殺。鉱毒事件を起こした夫に対する絶望からきた行動だと伝えられている。挫折後のゼロからの挑戦で、銅山という一大産業を育て上げ、経営者としては栄華を極めたように見えた古河だが、晩年は家庭の悲劇に見舞われ、かつ鉱毒事件で悪評を残すことになってしまった。

 古河の死後も成長を続けた古河財閥だが、その後、厳しい局面を迎える事になる。1919年(大正8年)、古河財閥の商事部門が中国大連で巨額の損失を出してしまう。一方、大規模な鉱山再生には多額の資金が必要で、借金を繰り返していた。このため、足尾銅山も合理化を進めざるを得なくなる。1921年(大正10年)には、その一環として、現存していたら貴重な歴史的資産建築として重要文化財に指定されていただろうともいわれている、辰野金吾(辰野葛西建築事務所)設計の足尾鉱業所事務所が足利市の市役所として売却・移築されている。

 結局、古河財閥は危機を乗り越えることになる。その過程においても、多角化は進められた。外国企業と連携事業もその一つ。1917年(大正6年)に横浜電線製造(現在の古河電気工業)と米BFグッドリッチとの合弁で、横浜護謨製造を設立。現古河グループである横浜ゴムの前身となる企業だ。1923年(大正12年)には独シーメンスとの資本・技術提携で富士電機製造(現:富士電機、「富士」は古河とシーメンスの頭文字をとったもの)を設立している。富士通は1935年(昭和10年)、同社から分離した通信機部が源流となっている。こうして、古河の系譜を持つ企業群は増え続けていく。

次ページ 富士通誕生の経緯