小野組の破綻から再起をかけた古河市兵衛(以下古河)。前回掲載した「富士通の源流となった『古河市兵衛』の挫折と復活の軌跡」では、鉱山ビジネスに成功した裏側には、盟友渋沢栄一の支援があったことを紹介した。だが、成功したかに見えた事業も、大きな問題にぶつかることになる。

急速に拡大した足尾銅山

 最近社会的に注目されているSDGs(持続可能な開発目標)に掲げられている17の目標に「つくる責任 つかう責任」という項目がある。資源の浪費を防ぎながら、良質な生産や消費を目指すものだ。生産者側の責任が大きく問われる時代となったといえる。だが、古河市兵衛(以下古河)が活躍した時代は、残念ながら環境や資源への配慮よりも、企業や国の成長が優先された時代だった。

 古河が運営した足尾銅山は、今では事業の成功物語の舞台としてではなく、「足尾銅山鉱毒事件」で知られる存在となっている。社会科の授業では、事業者責任とは何かを学ぶきっかけとして取り上げられることがほとんどだ。

 鉱毒被害は、鉱石採掘や銅の精錬で発生する産業廃棄物によってもたらされた。

 銅を精錬する過程では、有毒ガスが発生する。そのガスによって周辺の山々の植物や木々が枯れる。また、精錬や坑道整備のために、多くの木材が伐採された。山の緑が失われれば、保水力が下がり、雨が降るたびにそばを流れる渡良瀬川に土砂が流出し、時には土石流が発生していた。また、下流域では堆積した土砂が原因となって洪水も発生するようになった。

 銅を精錬するときに発生した化学物質も川へ流れ込み環境汚染を広げた。足尾銅山は渡良瀬川の上流にあったため、下流域である群馬県、栃木県、茨城県、埼玉県では川の水を生活用水として利用しており、広範囲に鉱毒被害が広がったといわれている。下流域では川の水や流れてきた土砂などによって、魚の大量死や農村の稲の立ち枯れ、健康被害が発生した。

 流出土砂の抑制のために、造林・治山工事が行われたが、洪水被害を減らすことはあっても鉱毒被害の解決には至らなかった。環境改善の効果が出るには、1955年(昭和30年)から1985年(昭和60年)まで3次にわたって建設された足尾砂防堰堤(えんてい)の完成まで待たなくてはならなかった。産業優先の活動がもたらす被害と、それのリカバリーの難しさについて大きな教訓を残すことになった。

 鉱毒による被害は、古河が鉱山を大規模化する以前からあったという見方もある。だが、“でがらし鉱山”だった足尾銅山の大規模化や、銅の精錬施設の排煙・廃液から出る影響が大きかったのは間違いない。

 この問題が大きく取り上げられるきっかけとなったのは栃木県出身の政治家、田中正造氏の活動だ。田中氏は1891年(明治24年)から衆院議員として国会で鉱毒問題についてたびたび質問したものの、対策は行われなかった。1897年(明治30年)になって国が出した鉱毒予防令によってようやく各種対策工事が行われたものの、ほとんど効果を上げなかった。この結果、1901年(明治34年)、日比谷において田中による天皇直訴事件が起きることになったのだ。

煙害により枯れた山々を元に戻すための緑化事業は、公共事業や地元NPO法人による苗木の植林活動などによって進められている
煙害により枯れた山々を元に戻すための緑化事業は、公共事業や地元NPO法人による苗木の植林活動などによって進められている

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