次なるビジネスは「鉱業」

 だが、古河の再起は早かった。そのきっかけは、小野組で培った「商機を見抜く力」と「信頼関係」だった。

 まず古河が目をつけたのは政府が所有していた秋田県の院内鉱山と阿仁鉱山だ。院内鉱山はもともと小野組が経営していた巨大な銀鉱山。破綻に伴い、経営権が剥奪され官営化されていたが収益性は低かった。阿仁鉱山は、江戸時代に平賀源内の技術指導を経て金銀銅が採れた鉱山で、官営鉱山となっていた。だが当時、採掘量は落ち、こちらも収益性は低かった。この2鉱山を払い下げてもらえれば、古河主導のもと、採掘量を改善できるとの青写真を描いたのだ。

 たった2年間ではあったが、かつて小野組が経営していたころの院内鉱山の経営は順調だった。彼としてはやり残した仕事との思いもあったのだろう。小野組で同僚だった浅野幸兵衞と共に政府に陳情し、鉱業ビジネスの一歩を踏み出す予定だった……。だが、政府からの許可は得られなかった。

 同時期に、古河は新潟県の草倉鉱山(官営)の獲得も企てていた。古河は、渋沢を訪れ融資の依頼をした。渋沢からは「君は何かと商売をよくする方だ。第一国立銀行としても、支援するから心配しないでよい」と答えたという。小野組の破綻時に得た、無形の信頼がここで役に立った。

 だが、小野組の破綻で政府も大きな損害を受けていたこともあり、古河のもとで良い鉱山になる可能性があるといっても、直接、古河への払い下げは難しかった。そこで、陸奥相馬中村藩士の志賀直道(*)が払い下げを受け、その下請けとして古河が経営を行うという方式がとられたのだ。

* 志賀直道は志賀直哉の祖父にあたる人物

 小野組破綻からわずか1年後の1875年(明治8年)、古河は鉱山経営を開始。海外の鉱山掘削技術を導入。銅の採掘量は右肩上がりで増加した。その後、旧高松藩の伯爵家に払い下げられた山形県の幸生(さちう)鉱山の再開発にも着手。古河は鉱山技術者ではないものの、経営力の高さから複数の鉱山の運営をまかされていくようになる。

 そんな中、ある大型鉱山の運営も担当することになる。足尾銅山である。

次ページ 出がらし鉱山に活路