2021年放送のNHK大河ドラマ「青天を衝け(せいてんをつけ)」にも登場した、古河市兵衛という人物をご存じだろうか。

この名前を見ただけで古河グループの創始者だとピンとくる人は多くないかもしれない。同グループの企業には中核企業である「古河機械金属」「古河電気工業」「富士電機」「富士通」の他、「朝日生命保険」「横浜ゴム」「みずほ銀行」といった企業も深い関係がある。今回、本連載で紹介するのは、この古河グループから派生した「富士通」の社史だ。前編では、古河市兵衛という企業家の大いなる挫折からの復活劇について触れていきたい。
成長のさなか、小野組が破綻
古河市兵衛(以下、古河)は、1832年(天保3年)4月16日京都生まれ。木村巳之助と名付けられる。貸金業をなりわいとする親戚のもとで働き、その後、小野組で働くこととなる。この小野組は交易で財をなして、明治政府の設立時に資金提供もした豪商。そんな小野組の番頭をしていた江州(現在の滋賀県)の古河太郎左衛門の養子となり古河を名乗るようになった。
小野組は明治政府に資金提供した見返りとして政府配下で公金の出納業務を担当することとなった。多額な資金をやりとりする過程で、明治政府から預かった多額の資金を利用。時代の変化によって生まれた新たな事業や企業へ、無担保貸し付けをしていた。そんな中、古河は小野組で頭角を現しつつあった。もともと貸金業の知見もあったため、日本全国の事業への融資から得た収益を再投資し、小野組の資産を増やし経営拡大に貢献していた。
しかし、急速な成長には必ずひずみが生まれる。経営拡大に伴い、現場を指揮するマネジャー人材の不足や、融資先の選定の甘さによる回収リスクなどが顕在化していった。そんな中、明治政府は突如、公金の取り扱いに高い担保金を課すことを決める。担保金を払おうにも、融資により金庫には担保金の支払いに必要なお金がない状態に陥るのである。
この苦境の際に、その後の古河の人生に影響を及ぼす企業として関係したのが第一国立銀行だ。小野組は1873年(明治6年)7月、第一国立銀行の設立にも関わっていた。我が国最初の民間出資の銀行で、資本金250万円のうち100万円は小野組が出資していた。このときの総監役(後に頭取)が渋沢栄一だ。
同行は小野組から出資を受けていただけでなく、小野組に多額の融資もしていた。小野組が破綻すると第一国立銀行も連鎖破綻する可能性があった。だが、融資の貸し剥がしを行えば小野組の息の根を止めることとなる。渋沢は大いに悩んだが、苦しい中、第一国立銀行への返済を主導したのが小野組にいた古河だったといわれている。
渋沢は後の談話で、古河から以下のような申し出があったと記している。「残念ながら、今の小野組の経営は立ち行かなくなった。自分は裸一貫で追い出されたり、情けないありさまに陥ってでも、後始末を行いたい(一部抜粋)」。その言葉を聞き、古河と渋沢は共に泣いたという。
覚悟をもって小野組(古河)が有言実行し、第一国立銀行からの融資をほぼ全て返済。結果、第一国立銀行は破綻せずに済むこととなった。だが、同行への返済を優先したことで、小野組が動かせる資産は減少、他から受けていた融資への返済のめどが立たなくなってしまった。その結果、1874年(明治7年)11月に小野組は破綻してしまう。ただ、このことがきっかけとなり、古河は渋沢からは大いに信頼を勝ち取り、その後の古河財閥の形成に好影響を与える結果となった。
とはいえ、古河にとって、小野組の破綻は悔恨の極みだったようだ。『古河市兵衛翁伝』では、「小野組を清算した結果、債権者に対して融資額の47%を精算できた。やり方によっては小野組を維持することもできたかに思えたが、非常時なのでうまくはいかなかった。残念でならない」としている。あくまで古河としては小野組を維持したかったのだ。
その後、古河は資産隠しの疑いを受け、半年間拘禁された。そして、自己資金を使って、小野組の借金の一部を返済している。このため、古河の再起はゼロからのスタートとなった。
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