前編「花札から始まった任天堂 独自の事業展開で急成長、新規市場も開拓」では、任天堂の事業が花札からトランプへと移り変わっていく過程や、山内溥氏の3代目社長就任を紹介した。後編では、任天堂が多角化にチャレンジし、ゲーム機開発に至るまでの経緯を紹介する。

任天堂の多角化経営シフト

 1956年(昭和31年)、山内溥は当時世界最大といわれた米国のトランプ会社「U.Sプレイング・カード」社の工場を視察する。だが、そのスケールの小ささに落胆したという。家業を受け継いでから、任天堂は株式上場を果たし、近代的な企業へと成長した。老舗の後継者としては立派に成功し、事業も成熟の域に達していたが、このまま花札やトランプなどのカードゲームメーカーのままでい続けることはどうしても彼の気質に合わなかった。

 今やっている商売は本来なくてもいいもので、目が覚めたら市場が消えているかもしれない。若い溥はカード製造事業の将来に漠然とした不安を感じ、娯楽品以外に活路を見いだそうとした。溥はより楽しい製品が登場しても生き残れるように安全で実用性が高く、将来性のある分野への参入を決意。祖母は会社の伝統を汚すと反対したが、任天堂の事業を多角化させる方向にかじを切った。

 60年(昭和35年)、まずタクシー事業に参入し、「ダイヤ交通株式会社」を設立。誠実を意味するトランプのダイヤをエンブレムにして、ピーク時には40台近くの営業車両を保有するほどの規模となった。しかし、運転手の労働組合と決裂したことで、69年(昭和44年)11月に名鉄グループへ譲渡し、経営から手を引いている。

 また、一般家庭に浸透し始めていたインスタント食品にも目をつけ、近江絹糸(現オーミケンシ)と京都大学生活研究所の力を借りて、「三旺(サンオー)食品株式会社」を設立し、インスタントライスを開発した。61年(昭和36年)には任天堂が事業を引き受け、京都府宇治市小倉町に工場を建設。インスタントライスのほか「ふぐ茶漬け」、ふりかけの「ディズニーフリッカー」、「ポパイラーメン」などを発売したもののうまくいかず、65年(昭和40年)に撤退している。

 そんな中、本業にも逆風が吹き始めた。大ヒットしたディズニートランプも東京オリンピックが開催された64年(昭和39年)には売り上げが落ち込み始め、経営の多角化の失敗もあり、会社の利益は減少していく。

 任天堂は将棋やマージャン牌(パイ)、輸入玩具などの室内ゲームを販売することで、何とか食いつないだ。

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