インスタントラーメンを開発した安藤百福(ももふく)。日清食品の創業者であり、国民食とも呼べる即席麺を作り、食文化を形成した人物だ。今の時代の言葉で例えるなら「シリアルアントレプレナー(連続起業家)」と言えるだろう。日本即席食品工業協会の2020年度調査によると、日本人は1年間で一人あたり平均47.9食ものインスタントラーメンを食しているというのだから、彼の発明は日本の食生活においてなくてはならない存在だ。しかし、伝説を残した創業者たちと同じく、百福の成功には多くの紆余曲折(うよきょくせつ)があった。日清食品の黎明(れいめい)期の社史として彼の半生を紹介する。
財産没収、一家離散になりかけながらも、ひたむきに事業と向き合った安藤百福。その不倒の生きざまから学べることは多い。
商人(あきんど)としての才覚
大きな大きな福耳を持つ赤ん坊。その耳の形から百福と名付けられた。時は1910年3月、日本統治下の台湾で生まれた。健やかに育った百福だったが、幼少期に両親は他界。呉服店を営む祖父母に育てられることとなった。人当たりの良かった百福は、家業を手伝いながら祖父の間近で商いのイロハを学ぶ。高等小学校を卒業後は、図書館の司書として働き始めることに。良い職場だったものの、人と商売をすることが血肉となっていた百福は2年で辞職してしまった。
その後1932年、22歳の頃に「東洋莫大小(メリヤス)」を台湾で創業。連続起業家の働きはこの頃から始まった。
祖父の商いに倣(なら)い、繊維業を最初のビジネスとして選ぶ。メリヤスとは、ジャージーと同じく伸縮性のある編み方で作られた布地だ。化学繊維が日本で浸透するのは戦後で、当時は麻に比べて伸縮性も高く、肌着や靴下、洋服にと活用された。
翌1933年には日本の繊維業の中心地、大阪に進出。メリヤス問屋「日東商会」を設立する。会社経営にも全力を注ぎつつ、その傍ら立命館大学に通学。若いとはいえ、鉄人のように働きつつ専門部経済学科を卒業したというのだから驚きだ。寝る間を惜しんで学び、働く姿勢は多くの部下から尊敬されたという。

日東商会が展開する日本・台湾間でのメリヤスの輸入事業は急成長。日本の占領下で台湾が成長するのとともに、メリヤスの使用も増えた。だが、時は第2次世界大戦に近づいていく。日東商会の主力商品のメリヤスは太平洋戦争にて輸出禁止措置が取られることとなり、事業が立ち行かなくなってしまう。安藤百福の初めての挫折であった。
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