さて、皆さんは「ラーメン」はお好きですか?

 日本の「ラーメン」、最近ではつけ麺も、もはや食べ物の域を超え「芸術品」のような雰囲気すら漂っていると思いませんか?筆者が子供の頃は、ラーメンの味も「醤油」「味噌」「塩」くらいでしたが、いつのまにやら「とんこつ」なんてものが登場し、魚介のテイストが入ったり、既存の味がブレンドされ「とんこつ醤油」などが登場したり!麺も平たくなったり、縮れたり、太くなったり、更にトッピングも多種多様。各店が様々な掛け算、組み合わせで、理想の味や食感を目指して試行錯誤しています。

 今や、むしろ「まずいお店」を探す方が難しいくらいに全体のレベルが高くなり、お店も他店との差異化するのはひと苦労だと思います。どの店もより個性的なラーメンを作りたい……。

 そんな中、全国の人気ラーメン店から絶大な信頼を得ている会社があります。それが、今回ご紹介する会社、京都にある老舗製麺所「麺屋棣鄂(めんや・ていがく)」。そう、「製麺所」のお話です。

【麺屋棣鄂DATA】
・創業   1931年(昭和6年)
・社員数  21人
・年商   約3億5000万円(2015年)

 麺屋棣鄂の麺を使用しているラーメン店はもれなく人気店になるとか。現在、棣鄂の麺を使用している日本全国のお店、その数およそ300店。その全店で1日に使われる棣鄂の麺は、なんと3万食!

 この会社を取り仕切るのは、3代目社長の知見芳典(ちけん・よしのり)さんと、工場長の知見和典(ちけん・かずのり)さん。そうご兄弟なんです。

小麦粉代にすら事欠く始末

 父である2代目から製麺所を受け継いだ時を振り返り、2人はこう話します。兄の芳典さんは「材料の小麦粉代がなかったんです」。

 えっ! 当時の会社はそんなに危機的な状況だったんですか? 製麺所で「小麦粉が買えない」って、何もできませんやん! 弟の和典さんは「自分の給料が出ないんです」ホ、ホントですか?さらに芳典さん、「僕が親ならこんなお店を可愛い子供に継がせようと思わないです(笑)」と、まさに倒産寸前。

 しかし、それが今や年商3億5000万円! 全国のラーメン屋さんからひっきりなしに注文が入る日本を代表する製麺屋へと成長させたそのメソッドをひも解いて行きましょう。

【麺屋棣鄂の「麺史上初」メソッド】

【メソッド1】大量生産から(???)の製麺所に変えた
【メソッド2】顧客の要望に応えるため(???)を惜しまない
【メソッド3】(???)と(???)の関係を崩す営業はしない
【メソッド4】(???)に合わせた麺作り

【メソッド1】大量生産から(???)の製麺所に変えた

 麺屋棣鄂の創業は1931年。知見さん兄弟の祖父、知見鬼三(ちけん・きぞう)さんが、うどん・そば・中華麺の製麺所として立ち上げました。京都で初めて中華麺を手掛けた製麺所といわれています。その後、芳典さん・和典さん兄弟の父である要さんに受け継がれていきます。

兄の芳典さん(右)と弟の和典さん。倒産寸前の会社に戻ってきた

 兄・芳典さんは「小学生の頃には父親から『製麺業界は先細りする。なので、お前は長男だからといって店を継がなくていいよ。その代わり自分の道は自分で切り開きなさい』と言われていました」と。その結果、兄も弟・和典さんもそれぞれ製麺とは全く関係のない会社に就職し自分たちの道を歩んでいました。

 しかし、96年、2代目である父が、脳梗塞で倒れてしまいました。
 そのとき、製麺所はすでに倒産寸前でした。
 父は病床から息子たちにこう言ったそうです。

 「店を継がなくてもいいとは言ったが、今は従業員がいる。従業員のために帰って来てくれないか?」。さらに「もう『棣鄂』は潰れると思う。でもお前たちもこの会社のお陰で大きくさせてもらったんやから、半年『タダ働き』でいいから、どんな会社だったか見届けることぐらいはいいだろう?兄弟2人で会社を見て、アカンかったら閉めたらええんや」

 この言葉に兄弟2人、製麺所をイチから立て直す決意を固めたそうです。

 そこで兄の芳典さんが3代目社長に就任し、営業を担当。弟の和典さんは、工場長として製造を担当することにしました。