今では当たり前になった「あの機能」を、世界で初めて搭載した理容イスを作り、今なおさらなる進化を続けるタカラベルモントの業界シェア№1の秘密・メソッドをひも解いていきましょう。

【タカラベルモントの「世界をリードする」メソッド】
  • 【メソッド1】ニーズを読み取り(???)を生んだ
  • 【メソッド2】業界の繁栄につながる(???)
  • 【メソッド3】ノウハウを活かし(???)の(???)を和らげる
  • 【メソッド4】専門家が集結!美容室の(???)をサポート

 まずメソッド1から見ていきましょう。

【メソッド1】ニーズを読み取り(???)を生んだ

 タカラベルモントは、「宝鋳造所」として1921年に創立されました。元は、七輪の「火皿」など、鋳物で日用品を作る会社でした。その後、見栄えや手入れのしやすさに着目し、「ホーロー加工」を取り入れたことが、新たな製品受注につながります。

 それが「理容イス」です。

 一見、理容イスとホーローがどう関連があるの? と思いますが、当時のイスは、イスの脚部にホーロー加工が施されていたそうです。つまり、タカラベルモントはイスそのものではなく、あくまでパーツだけを作っていた会社だったのですが、脚部の注文は日に日に増え、月に300台を超えるまでになりました。

 そこで、創業者の吉川秀信さんは、「いっそ製品すべてを自社で作ってしまおう!」と決意し31年、理容イスの製造をスタートさせました。

 「今ある製品ではなく、“明日使えるもの”を作って売る、が口癖でした」と創業者について語るのは、その孫である三代目社長・吉川秀隆さん。

三代目の吉川秀隆社長

 「自社で作ったモノは“売れるもの”という信念を持って製品を作っていました」。しかし、当時の美容業界は、外国製品が主流の時代で、「メード・イン・ジャパン」の中でも後発のタカラベルモントのイスは、門前払いとなることがほとんどだったそうです。そこで、地道に日本全国を回り、大阪では「えべっさん」の夜店に出店してPRするなど口コミにも工夫し、製販一貫で価格を安く抑えることで徐々に販路を拡大していきました。

 そして「品質が良くて安いものは世界のどこでも売れる」の考えのもと、第2次世界大戦直後の56年には、創業者・吉川秀信さんがアメリカに進出、現地法人を設立します。

 え、いきなりアメリカですか? 思い切りましたねぇ!

 当時、アメリカに進出していた日本の有名なメーカーは、日光学工業(現・ニコン)や日本ミシン製造(現・ブラザー工業)、味の素の3社だったとか。ソニーのアメリカ法人設立の1960年と比較しても、いかにタカラベルモントが先駆けていたかが分かります。

 吉川は言葉のカベとぶつかりながらも、車に自社製品のイスを積んで西海岸から東海岸を横断し、行商で日本製のイスを必死に売り込みました。

 まだ、終戦から10年ほどだったことを考えると、相当の苦労があったことと思います。

 しかし、その地道な売り込みで製品の良さが少しずつ浸透し、タカラベルモントのシェアは徐々に広がっていきます。

大阪発の世界初!

 海外にも足場を築き、着実に実績を積んできたタカラベルモントが「明日売れる商品を考えよ」の精神で次に目を付けたのが「電化」でした。

 洗濯機や冷蔵庫が電動になり便利になる中、「理容イスにも電化を取り入れよう!」と考えたのです。

 というのも、これまでのイスは、高さの調節を横に付いた手動のハンドルで行っていました。ところが、理容師は、客が座ったままハンドル動かすため、かなりの重労働。しかも、手が商売道具の理容師にとって、大きな負担となっていました。

 そんな負担を軽くしたいと開発したのが、世界初の「電動理容イス」。このイスの登場でペダルを踏むだけで、高さ調節が可能になったのです。

ペダルを踏むだけで高さが調節できるようになった電動のイス

 「お客さんにとっても楽ですし、理容師にとってもお客さんの髪を切る技術だけに専念できるので、双方メリットがあったんです」と吉川社長。

 世界初の電動理容イスは、63年当時、民間企業の初任給が2万3000円の時に、お値段13万3000円。従来品のおよそ2倍の値段でしたが飛ぶように売れたといいます。

 いかに、理容師さんから求められていたかが分かりますよね。