【メソッド1】全国に広めるため(???)に踏み切った

 1947年に貿易会社として日世を立ち上げたのが創業者の田中穣治さん。
 田中さんは1951年、当時アメリカで流行していたソフトクリームにいち早く目を付けたのです。アメリカからソフトクリームの製造機であるフリーザーを輸入し、日本の企業として初めてソフトクリームを販売しました。

 日世の歴史をよく知るマーケティング部執行役員の茨田貢司(ばらた・こうじ)さんは言います。「ソフトクリームが日本に入ってきたとき、正確には『ソフトサーブアイスクリーム』といって、『柔らかい状態で提供するアイスクリーム』と呼ばれていたのですが、日本人に分かりやすいように紹介しよう!と和製英語で『ソフトクリーム』と命名したんです」。へぇ~~~! ソフトクリームの名付け親は田中さんだったんですね。

「なんとかこの美味しさをもっと安く提供できないか?」

日世の歴史に詳しい執行役員の茨田さん
日世の歴史に詳しい執行役員の茨田さん
 

 そして、その年の9月。早速、大阪の阪急百貨店や大丸百貨店の食堂でソフトクリームの販売を開始しました。あんパンが10円、かけそば15円の時代にお目見えしたソフトクリームは1本なんと50円! 当時、材料から製造機まで全てが輸入品だったため、かなりの高級品でした。

 また、この輸入品というのが厄介で、輸入した「コーン」は輸送の間に、割れがあったり、湿っていたりと不良品が多く、安定した供給がままなりませんでした。「なんとかこの美味しさをもっと安く提供できないか?」そこで日世は思い切ります。

 そうです、コーンの自社生産に踏み切ったのです。
 茨田さんは「こうなると自分たちで作るしかない。とはいえ、当時はかなりの苦労があったと聞いています」。そもそも貿易会社として「商品を買い付け販売するという仕事」をしていた会社が「原材料を仕入れ生産し販売する」というメーカーとしての仕事にイチから取り組むのはかなり大変だったそうですが、この苦労の甲斐あって、ようやくコーンの安定した供給ができるようになりました。

 日世の挑戦はこれで終わりません。その10年後には「フリーザー」(ソフトクリームの製造機)を、更に3年後には「ミックス」(ソフトクリームの原料)の自社生産を開始します。これでソフトクリームに必要なもの全てを自社で賄うことができました。これにより値段を安く提供できるようになり、ソフトクリームが少しずつ世に広まることになります。すべては「ソフトクリームの美味しさを伝えたい!」という熱意からでした。

 そして1970年、自社生産のソフトクリームをさらに世に広めるチャンスが訪れます。そう「大阪万博」です。日世はこのタイミングで勝負に出て、会場に200台ものフリーザーを設置しました。自社生産の高額なフリーザーを200台用意するというのはかなりの決断だったそうです。結果は、……大当たり! 期間中、歩きながら「ソフトクリーム」を食べている方の姿をあちらこちらに見かけ、万博に訪れた6400万人の方にその存在を宣伝することができたのです。改めて、日世の熱意、恐るべしですね。

大阪万博で一気に注目を集める存在に
大阪万博で一気に注目を集める存在に

【メソッド1】全国に広めるため( 自社生産 )に踏み切った

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