重要なのは、一挙手一投足まで徹底的にまねすること。実際、うまくいった回の話ぶりを分析し、ポイントを取り入れるだけでは成果につながりませんでした。視線や表情、身振り手振り、体の動き、間、話すスピード、緩急といったセリフ以外の部分までを完全にまねることが必要だったのです。

 ただし、このレベルで満足してはいけません。さらに言えば、一流を目指すのであれば、目に見える部分だけでなく、心の領域まで踏み込む必要があるのです。

 『風姿花伝』は第一から第七までのパートで構成されています。その第二が物学条々(ものまねじょうじょう)。物まねが能の基本であるとし、女性や老人、神や鬼など9つのタイプの役を演じるにあたっての心得が記されています。

単に姿形をまねても駄目

 そこには「もとの形によく似せることが本意である」と書かれていますが、世阿弥は「単に姿形をまねよ」と主張しているのではありません。

 例えば老人に関して、世阿弥は「腰やひざをかがめ、ことさらに老人らしく見えるようにするのがいいのではない。年寄りの若振る舞いこそが大事な要点だ」と言っています。

 「年寄の心には、何事をも若くしたがるものなり。さりながら、力なく、五体も重く、耳も遅ければ、心は行けども振舞のかなわぬなり。この理を知ること、まことの物まねなり」(『風姿花伝』第七別紙口伝)

 年寄りは若振りたいもの。でも老いた体がそれに追い付かない。こうした年寄りの心情を理解し、振る舞いに落とし込む。そこまで鍛錬を重ねることで、観客を魅了する老人を演じられる。ここに物まねの本質があると、世阿弥は教えているのでしょう。

 仕事でも先輩などの話を聞いて、まねることがあるでしょう。そんなとき、果たして本質を捉えられているかどうか、見つめ直してみるといいかもしれません。

 まねはしても、表面的なことをなぞるだけにとどまっていたら駄目。努力なくして天才は生まれないし、意思あるところにしか結果は出ないのです。

 どうしたら本当の意味での物まねができるようになるのか。それには現状に満足せず、もっと上達したい、もっとお客様に感動を届けたいという気持ちを持ち続けること。80点で満足しない、さらに言えば100点の出来でもよしとしない。常にそれ以上を目指す心構えが要る。

 それが実際の演技やプレゼンテーションにつながって初めて、物まねができたといえる。そう私は思います。