流通大手ダイエーの創業者で、小さな小売店を一代で1兆円企業にまで育て上げた中内功(本来は「エ」に「刀」)氏は、ある時期まで子どもには会社を継がせないと公言していた。1982年にはヤマハ(日本楽器製造)の社長だった河島博氏を副社長に迎え、業績の立て直しを託した。河島氏に社長を譲るのではないかとみる向きもあった。

ダイエーも入り込んだ隘路

 ところが、87年に、河島氏を破綻したリッカーの管財人社長に異動させてしまう。代わりに代表取締役副社長となったのは功氏の長男、潤氏でわずか33歳だった。この段階で、功氏は、「ジュニア」と呼ばれた潤氏を本気で後継者にしようとしたのだ、とされている。

 一般論として、人間は老いると血縁関係のある身近な人しか信用しなくなる。猜疑心が強くなるのだ。功氏の場合も、優秀な他人よりも、実の子を信用するようになったのは明らかだった。功氏は1922年生まれだから、当時65歳である。

 潤氏は89年にダイエーの次世代戦略店とされていた「ハイパーマート」の経営を全面的に任されている。実績をつくらせることで後継者として世の中に認知させようとしたのだと見られている。

 その一方で、実績のある役員は疎んじられ、ベテラン社員は次々と辞めていった。河島氏を外したのも、業績のV字回復で河島氏に社内の人望が集まるのを避けたためと言われる。

 バブルの崩壊と共にダイエーの最盛期は終わり、その後、断末魔に陥っていった。99年、功氏は社長を退任、経営の一線から外れるが、その後、ダイエーは2004年になって産業再生機構による再生に委ねられる。

 その結果、中内家はその年の12月にマルナカ興産などの資産管理会社を特別清算。ダイエー株も、神戸・芦屋と東京・田園調布の豪邸も失うことになった。失意の中、功氏は05年9月に死去する。享年83歳。創業者として一大企業群をつくり上げ、そして最後は壊していった激動の人生だった。今、ダイエーはイオンの完全子会社になっている。

 創業者自身は、自分でつくった会社なのだから、自分と共に墓場に持って行けば本望に違いない。だが、創業者の手足として「家業」を支えてきた娘や息子たちはたまらない。大塚家の子どもたちも同じ思いだろう。

 勝久氏は1969年、26歳の時に株式会社大塚家具センター(現大塚家具)を創業し、春日部駅西口に大塚家具1号店を開店させるが、その前年に久美子氏が生まれている。久美子氏は幼少期、この1号店の店舗兼倉庫の一角で過ごしたという。まさに「家業」を身にしみながら育ったのである。その後、生まれた勝之氏も雅之氏も、当然のように急成長する大塚家具を支えてきた。逆に言えば自分たちが生きていくための働き口でもあるわけだ。そうなると創業者に一代限りで会社を壊されては困るのである。

 では誰が大塚家具を継ぐか。意外なことに、勝久氏は長男の勝之氏に跡を継がせるとは明言していない。勝之氏自身や母親の千代子氏は、長男が継ぐのが当たり前と思っているフシがあるが、勝久氏ははっきりとは言っていないのだ。

 跡継ぎが明確になれば、創業者である自分自身の求心力が失われることを本能的に察知しているからだろう。家族の間での求心力にしても、社内の求心力にしても、自らが絶対的な権限を握っていなければ保てない。創業者が最後の最後までポストを離れようとしないのは、現場にいたいというだけでなく、握り続けてきた求心力を失い、レームダックになることを恐れているのだ。だが、それでは跡継ぎ選びに失敗したダイエーの二の舞いになりかねない。

 創業者は一般的な引退年齢の65歳に達する前に、明確な跡継ぎを決めるルールを作成すべきだろう。かつての日本の老舗のように「一子相伝」で長子がすべてを継ぐルールならば問題はない。それでも長子が女の子ひとりだった場合にどうするのか、といった問題が生じる。番頭で一番優秀な人材を長女の婿に迎えるという旧商家の知恵も残っているが、今の時代、親の言うことを聞いて結婚相手を決めるわけではない。事業継承の基本ルールを定める「家訓」のようなものを創業者は早めにつくるべきだろう。

(この記事は、『「理」と「情」の狭間』の一部を再編集しました)

 大塚家具の経営権を巡る騒動は何だったのか。終始、その行方を見守り続けてきた経済ジャーナリストが顛末をまとめました。渦中で、久美子社長は何を思っていたのか――その胸中に迫ります。この騒動は、どこの家庭でも、またどこの家族経営の起業でも、普通に起こりかねない問題です。そこで、経営者にとっても学ぶべき点の多かった出来事として、コーポレートガバナンスの観点からも解説します。『「理」と「情」の狭間』は好評販売中です。